TOPに戻る
次のページ

第9話:彼の本音と彼女の決意




 私たちが欲しかったのは。
 どこまでも、温かな、それ。



 目の前で何が起きているのかわからなかった。
 校舎の陰から早足で駆け寄って来た男子が、私を蹴っていた隣のクラスの男子の後頭部を大きく振りかぶって殴った。殴られた男子は地面に倒れて動かなくなった。
「なんだてめえ……んふぐっ」
 反撃しようとした違うクラスのサッカー部の男子の顔の中心に体重のかかった拳が刺さり、鼻血を流しながらそいつも倒れた。それを見ていた他の男子や女子は逃げ出した。
 駆け寄ってきた男子は私に手を差し出したので、私はその手を取ってゆっくりと立ち上がった。細くて白く頼りない彼の手は、思っていたよりも力強く見えた。蹴られたり殴られたりしていたせいで、体中が痛む。でも、必死の思いで、何とか立ち上がった。
「喧嘩、強かったんだね」
「いや、生まれて初めて人を殴ったよ」
「それにしてはスムーズな動きだったね」
「怒ると人間どうなるかわかんないよね」
 私が呟くように質問すると、黒崎君は笑いながらそう答えた。私もつられて笑みを漏らす。最後に見た時より頬の肉が落ちているのに私は気がついた。
「……何で来たの? 助けに来てくれたの?」
「いや、なんでかよくわかんないな……それより、逃げた方が良いね」
「そうだね」
 足元でうめき声を上げる男子を見ながら私は返事をした。これ以上厄介なことになるのは面倒だ。黒崎君が早足で歩きだしたので、私も彼についていった。自分が荷物を持っていないことに今更気が付いたけど、どうでもいいことだと思った。
「元気だった?」
「まあ。あんまり」
「私は……まぁ、この有様で」
 校門をくぐり抜けてからそう話すと、黒崎君は少しだけ眉をしかめた。空を埋め尽くした分厚い灰色の雲は、夕暮れの光を完全に遮って灰色を落とし、雨の匂いを漂わせていた。
「調べたよ」
「何を?」
「君のこと……この数か月間の、君のことを」
 黒崎君がすこし悲しそうな声をしていることに私は気が付いた。どうやって調べたのだろうか……私のクラスの人に聞けば一瞬で済むことだから簡単か。黒崎君は私の前を早足で歩いていたので、私はついていくのに必死になりながら早口で話を続けた。
「みっともないとこ見せちゃったね」
「いや、僕の責任だよ……ほんとに、ごめん」
「私が迂闊だったんだよ。あの時……文化祭の時、君の言うことを聞いておけば……」
「それだけじゃないんだ」
 黒崎君は強い口調で私の言葉を遮った。それでも彼の足は止まらない。どんどん早く、大股になっていく。それでも私は半ば小走りになるようにしてついていった。
「君がそんなことになってる時に、僕はオトモダチを止めることを提案してしまった。自分の都合で。自分のエゴで。自分のために。」
「そんなの良いじゃない。『自分が幸せになりたいって思うのが一番』って言ってたのは黒崎君だよ」
 すると黒崎君は立ち止まった。振り返って、私に虚ろな目を向ける。濁ったように黒い瞳は、まっすぐと私に向けられていた。私は顎をぐっとあげて彼を見つめ返したが、彼は黙ったままだった。
 そうしているうちに雨が降ってきた。最初は肌が濡れたことが気にならないくらい弱かったが、ほんの少しずつ強くなり、霧のように細かい雨が空気を包み込むように振ってきた。
「僕はね……」
「……」
「僕は……いや、僕こそ偽善者だったんだよ。君に偉そうに偽善者なんて言ってる、この僕が一番の偽善者だったんだ」
「え?」
 私はじっと黒崎君を見ていた。彼は柔らかそうな自分の下唇をそっと噛んだ。それから口を開いてゆっくりと語り始めた。
「昔話をしていい?」
「桃太郎とか、金太郎とか?」
「まあ違いはないかもしれない。意味はないのに意味がありそうだと思ってしまう点では似たような話だよ」
 お得意の意味の分からない例えを、彼は流れるようにつらつらと話す。話の先が良く見えなかったが、私はとりあえず頷いておいた。それを確認して、黒崎君はまた歩き始めた。
「僕の両親はね。医者なんだ」
「私を診てくれた黒崎先生ってのは……」
「うん、まあ、僕の父親に当たる人だね」
 私が思わず口をはさむと、彼は苦々しい顔をしてそう答えた。
「父親も母親も外科医で、病院に泊まることが多くて、昔からあまり家にいなかったんだ。僕が小さい頃は割と家にいたかもしれないけど、僕が自分の身の回りのことを一人でできるようになればなるほど二人ともどんどん家にいることが減ってきた」
「寂しくなかったの?」
「まあ、小さい時は寂しかったけど……どんどんそんなことは考えなくなってきた。何でも一人でできると思ってたし、実際金銭の処理以外は大体自分で何でもやってたんだ。それで、中学二年生ぐらいでお金は出すから一人暮らししないかって言われてね。断る理由も無かったし、今のマンションで一人暮らしを始めた。でも、一人で何でもできたんだけど、昔からできなかったことがあったんだ」
「……何が?」
「人との交わりがどうしても苦手だったんだ。こういうのって普通親に教えてもらう、というか親をみて真似しながら覚えるんだろうけど、それが僕には無かったからだろうね」
 そこで黒崎君は言葉を少し切った。雨が強くなっていく。それでも黒崎君は言葉を止めなかったし、私はそれを一言も漏らさないと思いながら聞いていた。傘を差して早足で通りすがる人々が私たちに奇異の目を向けていたが、二人で傘も差さずに学校に背を向けて歩き続けた。
「挨拶とか世間話くらいならできるけど、深く掘り下げるってことが苦手だったし、どこかで怯えていた。だから僕には友達がいなかった。顔見知りといえるような奴はいたけど、一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりするような奴はずっといなかった。友達は本だけ。読むのに時間がかかる難しい本が好きだった……長く付き合ってくれている気がしたからね。そうやって真っ暗な学生生活を送ってきたんだよ。高校になるまでは」
「それが三日月さん?」
「君だよ」
 黒崎君は突然立ち止まり、私を見ながらさらりと言い切った。胸の奥で心臓が少し弾むのを感じた。
「もっとも、友達というよりはオトモダチだったんだけどね。感情を挟まずに、セックスだけする。正体の分からない二年生の先輩の女の子から、そういう提案を受けた時、心のどこかで喜んだんだ」
「……むっつりスケベ」
 そういうと黒崎君は乾いた笑い声をあげながら、再び雨を掻き分けるようにして歩き出した。私も慌てて歩き始める。冷たい冬の雨が私たちの体温をどんどん奪っていく。
「もちろんセックスに興味が無かったなんて言わないよ。でも、それ以上に、定期的に出会って、定期的に話せる人がいたのが心のどこかで嬉しかったんだと思う。欲望をむき出しにする君は少し怖かった。何度しても自分を汚している感覚がしていた。けど、今から思えば、君の一番近くにいたってことが……僕を変えていた」
 前を向いて歩き続ける黒崎君の顔は見えない。雨音がノイズをかけていた。でも、私には確かに黒崎君の声が聞こえている。彼は泣いていた。
「僕が三日月さんに近づけたのも、三日月さんを好きになれたのも、君が居たからだと思う。君と出会ってなければ、怖くて、近づけなかったと思う。多分、拒絶していた。やたらに話しかけてくる同じクラスの女子。それで終わってたと思う」
「良かったよ。私なんかが役に立てて」
 胸が詰まるような感覚を覚えたので、私は息を吐き出しながらそう言った。すると少し投げやりに言ったみたいになってしまった。黒崎君はそれを気にしたのか気にしていないのか知らないけれど、短い言葉で話を続けた。
「三日月さんはふった」
「……え?」
 私は絶句した。二人とも黙り込んだせいで、急に雨音が強くなったように感じる。しかし実際の所、雨の勢いも強くなっていた。
「両想い、だったんだよね? 学校の中で手を繋ぐくらいには仲良かったんだから……」
「両想いだっただよ。僕は三日月さんが心の底から好きだった。今でもだよ」
「だったらなんで?」
 少し強い調子で聞いてしまった。私はあれだけの覚悟で彼の舞台からフェードアウトすることを決めたのに、どうして。私は少し苛立ってしまった。
「好きな人には好きな人がいて、友達からは見捨てられ、クラスで居場所を失くしたみじめな私に気を遣って?」
「違う」
 彼は強く言い切った。
「彼女は僕に相応しくない。僕は……君を、本当は一番大事だったはずの人を、気づかずに見捨てるような奴だ。三日月さんがいくら愛情を向けてくれたとしても、僕が三日月さんのことをどれだけ好きだったとしても、どこかでヒビを入れてしまったと思う」
「そんな理由で……三日月さんの気持ちは……」
「彼女は強い。僕のことなんか忘れて幸せになれる。今は僕を恨んでるかもしれない。まだあきらめていないかもしれない。でも、多分どこかで三日月さんは解決すると思う。その時はまた一緒に話せると思う」
 相変わらず顔は見えなかったが、彼は強く言い切った。雨が顔を殴打するのも気にせず、私は彼の頭をじっと見上げた。憧憬と信頼。黒崎君が彼は三日月さんのことが本当に好きなんだなということが分かり、少し寂しい気持ちになった。
「これが僕の昔話」
「……」
「君が僕の部屋で倒れているのを見つけてから、ずっと考えてたんだ。僕ってなんなんだろうって思ってさ」
「……何が言いたかったの?」
「つまるところ、これがね、僕なんだ」
 彼が立ち止まったので私も立ち止まった。気が付くと、私が春に彼と来た公園に来ていた。私がオトモダチになることを提案した公園。ショッキングピンクと水色というよくわからない配色で塗られたブランコ。煤けて汚くなった滑り台。置き忘れられたスコップが刺さった砂場。そしてそれらすべてを包むように強い雨が降っている。雨音が耳の奥で弾けた。
 黒崎君は辺りを見回している私を待つように少し黙っていて、それから再び口を開いた。
「そういえば、読んだよ」
「うわ、読んだんだ、あれ。死ぬと思って恥ずかしいこと書いたのに」
「そうだろうと思った。君が考えてたことが……君の正直な気持ちが、書いてあると思った。君は感情を隠すのが上手いから、僕は分からなかった。わかっていなかったことが多すぎた」
「そうかも、しれないね」
 そこで黒崎君は少し黙った。私の体は雨に濡れて冷え、どんどん立っている感覚が無くなっていた。それでも黒崎君の話を聞こうとしていた。聞きたかった。
「君は僕のことを『優しい』と書いた。でも違うんだ。僕のここまでの話を聞いてわからなかった?」
「……全然」
「僕は、優しいんじゃなくて、臆病だったんだよ。どこまでいっても」
「……」
「人を傷つけるだけの勇気が無かったんだ。君がオトモダチになろうと持ちかけた時も、頻繁に僕の所に来てた時も、僕は断れなかった。君を傷つけられなかったからなんだ」
「でも」
「三日月さんのために君を拒絶したり、三日月さんのために彼女と別れを選んだりしたのは、自分が少し変わったからだと思う」
 呟くようにそう言うと、黒崎君は目を伏せて黙り込んだ。
 彼の臆病な心を優しさと見て夢を見た私。
 私の汚い欲望に触れて変化した黒崎君。
 滑稽だな、と思った。何もかもはじめに考えた通りには上手くいかない。
 この関係だってそうだ。欲望を満たすため、感情は挟まない。そう言ってお互いに欲望を求めていたはずなのに、最終的に二人が求めてたのは肉欲なんかじゃなかった。
 私は笑った。笑って黒崎君に飛び込んだ。黒崎君は私を支えるように抱きしめてくれた。
「何が面白いの?」
「何もかも……何もかも上手くいかないんだなって思って」
「……え?」
「まっすぐ投げたはずのボールは戻ってきて投げた人の側頭部に当たって、思いっきり振ったバットは空を切ってて……ハハハ」
「野球?」
「結局二人ともセックスがしたかったわけじゃなかったんだね」
 彼の胸に顔を押し当てながら、私は呟いた。自然と涙が出た。
「……ぎゅって、して」
 そういうと黒崎君は私を強く抱きしめてくれた。雨で冷えた体が彼の体温で少しだけ温まる。私も腕を彼の背に回した。彼の背中は思っていたよりもずっと大きく感じた。この感覚だ。私が欲しかったのは。彼が欲しかったのも。多分。
「あったかいね」
「うん」
「まだ直接は言ってなかったっけ?」
「何を?」
「黒崎君は三日月さんのことが好きなのかもしれないけど。私なんてその次の次の次くらいなのかもしれないけど」
「……」
「私は黒崎君のこと好きだよ」
 そう言ってから唇を重ねる。彼は拒まなかった。
 どこまでも軽く、どこまでも柔らかく、どこまでも儚く。
 夢を見ているようだった。体の感覚がどんどんなくなる中で、彼の暖かさだけが伝わってくる。私は嬉しかった。この上なく幸せだった。
 長い時間が経ったような気がして、それから彼は唇を私から離し、こう言った。
「あのさ、提案なんだけど」
「何?」
「オトモダチじゃなくて……友達になろうよ。欲望とか感情とか、思いつく限りのものを挟もう。何を話しても、何を求めても、何をしても……許される、そういう友達になろう」
 私は頷いた。寒くて震えていて、涙が流れて止まらなくて、声も出なかった。ただ彼の腕の中で頷くことしかできなかった。黒崎君も少し震えていた。私は彼を抱きしめる腕に力を込めた。彼も力を込めた。でも、二人で共有できる熱はそこまで多くなかった。
「寒いね」
「……うん」
「これから、どうする?」
「行こうか」
「どこへ?」
「どこまでも」
次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system