TOPに戻る
次のページ

第10話:彼の幻想と彼女の幻影




 待ち合わせは確か午後二時だった。
 腕時計を見ると午後二時三十二分。
 僕が待ち合わせの時間を間違えたということは無いはずだ。会えるのが楽しみだったから僕は今朝から何度も今日の予定を確認したメールを見ていた。机に残った煙草の焦げ跡を見ながら、そういえばここに初めて来たのは三日月さんとだっけと思った。
 僕がちょうど一杯目のコーヒーを飲み干した頃、西野さんはやっと来た。
「ごめん! 遅れた!」
「いいよ。暇な日だし」
 走ってきたのだろうか、少し息が荒くなっている。白いふわりとしたワンピースの上にカーディガン。髪の毛は少し長めのボブカット。彼女は大学に入って直後くらいに髪の毛を切った。前の髪型より僕はこちらの方が好きだ。口には出さなかったが。
「教職のレポート書いてたらこんな時間になってて」
「先生になるの?」
「いや、わかんないけど一応とっとこうと思って……暑いね……」
 季節は夏だ。小さな窓から外を見上げると、これでもかというほど群青色の空が見えた。窓がきちんと閉められ、空調がよく効いた喫茶店の中にも蝉の声が入ってくる。
 僕は店員を呼んでコーヒーのお替りを頼んだ。彼女は店員にアイスティーとモンブランを頼んだ。二年経っても変わらずこの店の人気メニューはモンブランのようだ。
「最近どうなの?」
「どうって……特に変わりないよ。勉強して、サークル行って、バイト行って、帰ってくる」
「そういうことじゃなくて……まだ彼氏できないの?」
「あはは、何心配してんの?」
 別に心配しているわけではなかったんだけど。僕はモンブランと一緒に届いたコーヒーのお替りを啜った。苦みと酸味が舌の上で踊った。
「サークルの同じ学年の人にコクられたけど、断った」
「なんで?」
「まあタイプじゃなかった。かっこよかったけど……黒崎君の方がかっこいいかも」
「やめてよ」
「ははっ、でもそれ以上に……やっぱ自分が好きになれない人とは上手くいかないんだろうなって。転校した後の高校でも告白されて、でもあんまり長続きしなかったから、流石に学習した」
 そう言いながら、彼女はフォークで切り分けたモンブランを口に運ぶ。それを眺めながら僕ももう一口コーヒーを啜った。コーヒーの苦みは自分の思考をクリアにしてくれるようなのが好きだった。
「黒崎君は?」
「ん? えっとね、何も変わってないよ」
「キスもまだなんでしょ」
「キスくらいはしたよ」
 急に話の矛先が僕に向かったので僕は少し狼狽えながら答えた。彼女はそれをみて楽しそうに笑った。あの事件があってから……彼女が転校してから、ずいぶんと性格が変わったように思ったが、こういう所はあった時とあまり変わっていない。
「喧嘩するの?」
「たまにね。二人で読んでた本の解釈が違ってどちらも譲らないとかそういうくだらないことで二日くらい口もきかなかったりする」
「……そういう理由で喧嘩するカップルも珍しいね」
「変なんだよ、二人とも」
「自覚してるならなんとかしなよ」
 そう言って西野さんはおかしそうに笑った。
 三日月さん……美月とは西野さんが転校した直後に付き合い始めた。僕が激昂して西野さんをいじめていた男子を殴っていたことを一部始終見ていたらしい。その後少しの話をする機会があって……彼女は僕らのことを飲み込んだ。僕らは付き合い始めた。
 美月は、僕がこうして定期的に友達に出会っていることを知っている。知ったうえで苦笑いしている。心配はないのかと聞いたことがあるが、
「悠人君の初めての友達なんでしょ? どうせ止めたってこっそり会うんでしょ?」
 と笑い混じりに言われた。何もかもお見通しのようだ。彼女には全く頭が上がらない。
「そうだ、相談しようと思って」
「なに?」
「私ね、留学したいんだよね」
 話が唐突過ぎて、喉を落ちようとしていたコーヒーが気管に入り、僕はひどくむせてしまった。西野さんは「そこまで驚かなくても」と言いながらお冷を差し出してくれた。僕はそれを喉に通して冷やしながら、言葉を何とか続けた。
「どこへ?」
「英語圏かな……カナダとか。でも最近はドイツでもいいかなと思ってる」
「何しに行くの?」
「うーん……なんとなく、かな」
 そんな曖昧なこと希望理由を書くシートには書かない方が良いと思う、と僕は心の中で注意しておいた。口にせずとも流石にわかっているだろう。
「ってのは冗談で――世界を見てこようと思って」
「それなんとなくとあんまり変わってない気がする」
「詳しく言った方が良いね」
 彼女は微笑みながら言葉を紡いだ。僕はその微笑みをじっと見つめながら聞いていた。
「高校の時のこと考えてると、思ってるより自分の生きてる世界って狭いなって思ってさ。そういう狭いところで作り笑いして、苦しい思いして、退屈になって、死にたくなって……そんな考えないでいいことばっかり考えてた。そういうのってなんか損してる気分にならない?」
 僕は黙ったまま頷いた。ただ、肯定も否定もできなかった。
 今の僕にとって世界が嫌いなわけじゃない。
 でも、今見えてない世界を見ずに世界のことは語れない。
 僕にとってはそれが世界だった。



 ――視界が歪む。
 幸せな長い夢から覚めるようにして僕は目を開いた。
 夢を見ていたような気がしたが、内容は覚えていない。
 冷たくなった彼女の手と、振り続ける雨。
 白磁のような彼女の顔を覗き込んだ。目は閉じたまま頑として動かない。
 僕も目を閉じた。兎に角眠たかった。
 そして薄れゆく意識の中でまた言葉が響く。



 ああ、そうか、思い出した。
 これは、汚れきった僕と汚れきった彼女の話。
 そして、救えなかった僕と、救われなかった彼女の話。



――「オトモダチ。」終わり
次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system