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第8話:彼の決意と彼女の本音

▽12/12/27更新分から読む ▽12/12/29更新分から読む


 何も変わらない、
 何も変えられない、
 その非力さを。



 鼻の奥に刺さるような消毒液の匂いと、無機質過ぎるアイボリーの床。
 忙しなく動く医者や看護師と、気怠そうに診察を待つ人々。
 どこかから流れてくる張りつめた空気と、滞留し淀んだ空気。
 病院という空間はいつ来ても落ち着かなかった。いや、嫌いと言っていいかもしれない。僕は病院が嫌いだった。匂い、音、色、空気。病院という空間に存在する何もかもを僕は拒んでいた。できれば居たくは無かったが、居なければならないような気がして、じっと座っていた。
 僕は病室の前に置かれた長椅子に腰かけて、ひたすらに床を見つめて、考えを張り巡らしていた。状況から考えて彼女が命を絶とうとしたことは明らかだ。なぜなんだろうか。僕が彼女を追い詰めてしまったのだろうか。だとすれば、僕に、責任があるのだろうか。
 小刻みに震えている自分の手のひらを見つめながら、僕は数時間前の記憶をたどった。お風呂場から出てきて血だまりの中で倒れている西野さんを見つけた時、あまりにも焦りすぎて、頭が真っ白になって、何をどのような順番でしたか覚えていない。ただ、自分の意識がはっきりした時には、救急車が家に来ていて、僕は必死に血が出ている部分を押さえて止血をしていた。
 彼女は大量の血を見たショックで気絶したようだった。彼女が切った後水に浸けることを知らなかったことと、僕が見つけて止血を始めた時間が早かったおかげで、何とか最悪の事態に陥ることは避けられたみたいだった。今彼女は病室で眠っている。僕が西野さんの携帯を使って家族に連絡をしていたので、彼女の母親が今彼女を見ている。
「ちょっといいか」
 気が付くと隣に白衣を着た男性が立っていた。白髪交じりの灰色の髪を短く刈り込み、体が妙に細く、背が妙に高く、銀縁の眼鏡の奥からは鋭い目が鈍い光を放っている。知らない男性ではない。ただ、男性と形容する方が僕にとっては馴染む存在だった。僕は一度思考のスイッチを切った。
「何?」
「状況から見て、自分で切ったみたいだな」
「そうだね」
 男性は無機質な声で僕に話しかけ、まるで同僚に事務連絡するかのようにそう言った。僕の記憶が正しければ物心がついてから彼の話し方はずっとそんな感じだった。後ろの無機質過ぎるくらい白い壁に声が同化するようだった。
「理由はわかるか?」
「わからない」
 わかる筈もない。だからこそ今考えを張り巡らせているというのに。僕は俯いて少し低い声で答えたが、それでも男性は表情や姿勢を崩さずに質問を続けた。
「あの子はお前の何なんだ」
「そうだね……オトモダチ、かな」
「友達か。恋人とかではないのか」
「違うよ」
 僕は正直に答えたが、男性はその意図をきちんと掴めなかったようだ。こんな風に説明している自分に悲しくなってしまった。数時間前に彼女との関係を断ち切るという約束をしたというのに。
「お前が追い詰めたとかではないのか」
「……わからない」
 男性は声のトーンを変えずに聞いたが、僕は俯いたままぼそりと答えた。本当にわからなかった。いや、なんとなくわかっているような気がしたけれど、脳が、心が、無意識に理解を拒んでいるような気もした。
「そうか」
 それだけ聞いて男性は立ち去っていった。話したのは一分もたたない間。信じられないかもしれないが、あれが僕の実の父親だ。実の親とは思えないほど無関心な態度。母親も同じような態度だ。家には殆ど滞在せず、常に子供に他人行儀で接し、何の感情も見せないように振る舞う。僕はそうやって育てられてきた。いや、育てられたというよりは、飼われていたと言った方が正しいかもしれない。まるで餌だけ与えて放置されてきた犬のように育ってきた。だから僕は病院が嫌いなのだと思う。病院は僕にとって、両親との断絶を象徴する場だった。
 僕は立ち上がった。ここで西野さんを待っていても仕方ないことに今さながら気づいたからだ。相変わらず無機質な象牙色の床を見つめながら、ゆっくりと溜息をついた。僕は家族が欲しかったのかもしれない。一人で居ることに慣れ切っていたはずなのに、それでも温もりが欲しいとどこかで願っていたのかもしれない。
 僕は自分の手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめた。
 僕は弱い。



 彼女を追い詰めたのは何か。
 彼女がカッターを握った時、どんな気持ちだったのか。
 あれだけ強い精神を持っていた西野さんが折れたのは、何故なのか。
 それを知るためには西野さんが僕に見せていなかった部分、つまり学校での西野さんの姿を知る必要がある。それを受け止めることが僕に課されたものであるような気がした。西野さんが病院に入った次の日、僕は少ない情報からそれについて調べてみることにした。
 西野さんが僕の前で一番口にしていた人の名前、といってもお互いにクラスでの話はあまりしていなかったので断片的な記憶だったのだが、彼女がいつか口にしていた「祥子」という名前ははっきり覚えていた。おそらく同じクラスだろうから、昼休みに西野さんのクラスに行ってドアの近くにいた女子に聞いてみた。だが、「知らない」というそっけない返事が返ってきた。関わらないでと言わんばかりに背を向けて教室の奥へと去ったその女子を見ながら、この時点で少し違和感を覚えていた。
 次に廊下の角で待ち伏せして、西野さんのクラスから出てきた気の弱そうな男子を捕まえた。僕が「祥子」と呼ばれる人物についてかなりしつこく聞いたので、彼は大分鬱陶しがって声を荒げたが、僕はしつこく食い下がった。すると、彼はしぶしぶこう答えた。
「稲垣、稲垣祥子は、今話題にしてはいけないことになってる」
「どうしてですか?」
「西野……いや、ここのクラスのことを君に細かく説明する義理は無い」
 ものすごく断片的な情報だが、僕の想像を繋ぐには十分な量だった。僕は早口で彼に礼を述べ、一階の下駄箱へと走りながら、頭の中でバラバラになっている情報をまとめた。
 西野さんが最も親しくしていた「祥子」……稲垣祥子さんは、今いじめられている。しかも原因は西野さんにある。となれば西野さんのクラスでの状況は、悪いことになっていたと考えられる。全く気付いていなかった。彼女がそんな大変な状況にあるというのに、僕は自分の都合で彼女を遠ざけようとしたのか。罪の意識が胸の奥で疼いた。
 外へ出て周囲を見渡す。校庭に、木陰のベンチに、日の当たるところに多くの人がいた。十二月ともなれば寒いはずなのに、外でお昼ご飯を食べている人が数組はいる。物好きといえば物好きだが、空気の淀んだ教室から出たいという気持ちはわからなくもなかった。
 僕は校舎の裏の方に歩いて行った。陰になっていて、誰も近づかないような部分。そこで一人の女の子が俯きながらお弁当を広げているのが見えた。僕が近づいていくと、彼女はびくりとしながら僕を見上げた。
「あなたが、稲垣祥子さんですか?」
「は、はい」
 僕がゆっくりと尋ねると、稲垣さんは震えるような声で答えた。当たりだった。
「少しだけ聞きたいことがあるんですが、良いですか?」
「な、何を……」
「西野陽菜さんについて……西野さんが、今学校を休んでいますが、これまで学校でどんな状況だったのか、教えてください」
 彼女は「西野陽菜」という名前を聞いた途端、泣きそうな顔になって固まってしまった。ここで彼女の口から何も聞き出せなければ、絶望的な状況になってしまう。僕は深く頭を下げた。
「どうか、お願いします」
「あ、頭、あげて! お願い!」
 稲垣さんが怯えるような声でそう言ったので、僕は慌てて顔を上げた。彼女は俯いてお弁当にふたをしながら、低い声で僕に質問した。
「君は、誰? 陽菜と、どういう関係の人なの?」
「一年生の黒崎です……西野さんとは……オトモダチでした」
「知らなかった……陽菜が一年生の男子に友達がいたなんて……」
 僕は正直に答えたが、稲垣さんにも真意は通じなかったようだ。校舎の陰から吹いてくる冷たい風が僕の体にぶつかるようにして流れていった。コートを羽織ってこなかったので、寒さが突き刺さる。
「陽菜は……陽菜は私の友達で……一番仲が良くて、真面目で、優しくて、強い子でした」
「はい」
 僕は頷いた。僕の前での西野さんを見る限り、真面目で優しいかどうかは別として、強い女の子だったことは確かなのだ。その彼女を何が追いこんだのか。
「それが、今年の文化祭くらいから妙な噂が立って……浮気してるとか、陰では知らない男とエッチしまくってるんだとか……根も葉もない噂が……」
「……」
「それで、陽菜はフラれて、周りの女子が陽菜を無視し始めて……嫌がらせまで……」
 稲垣さんは突然立ち上がり、僕に詰め寄った。
「ねぇ! ……君も、嘘だと、思うよね! 陽菜がそんなことするわけないじゃん! 陽菜が! そんなわけ……!」
「っ……」
 彼女の頬を、涙が伝わり、地面に吸い込まれるように落ちた。
 僕は否定の言葉を発しようとした。だけど、咄嗟に声が出なかった。いや、正しく言えば、西野さんを深く知りすぎていたからかもしれない……僕は否定することができなかったのだ。何も言わない僕を悲しそうな目で見ながら、稲垣さんはつぶやくように僕に問いかけた。
「……文化祭の時に、屋上で陽菜と話していた一年生がいたらしいんだけど、君のこと?」
「……いえ」
 小声で嘘をついた。僕は西野さんのように上手く嘘をつくことができない。稲垣さんが僕から離れたのを見て、僕はやっと息を吐き出した。
「陽菜は……学校に来るの?」
「多分、もうすぐ来れるようになると思います」
 僕がそういうと、彼女は少し安心したような息を漏らした。
 彼女にこんなにも優しい友達がいるなんて知らなかった。嘘の笑顔を貼り付けて、嘘の言葉を撒き散らして、本音がなかなか見えなかった西野さん。そして虚構と虚言に満ちた彼女をここまで心配する稲垣さん。そして彼女を裏切る僕。
 皮肉だった。あまりにも悲しい皮肉だった。
「……大きな声出してごめんね」
「いえ、色々聞いて、すいません」
 僕は彼女に軽く一礼すると、校舎の中へと戻った。
 思った通りだった。彼女は学校でいじめられている。そしてそれは僕が原因だった。それは僕が彼女に「オトモダチ」を止めることを提案した頃とほぼ同時だった。つまり、学校での西野さんの立場がまずくなるのと同時に、彼女は僕を失ったことになる。肉体的な慰め、そしてもしかすると、精神的な慰めも。
 強烈な罪の意識が僕を襲った。全身が強打されたかのように震え、胃の底が打撃を受けたかのように動いた。突然強烈な吐き気がして、トイレに駆け込む暇も無く、廊下の隅で僕は床に崩れ落ちた。だけど食欲が無くて朝から何も食べていなかったので、胃の酸が喉の奥まで上がってきただけだった。僕は荒くなった息を整えるために、ゆっくりと息を吸ったり吐いたりした。埃っぽい空気が肺の中に入って、余計気持ち悪くなった。廊下を歩く数人が怪訝そうに僕を見たが、僕は呼吸を整えるのに必死で、他のことを気にしている余裕が無かった。
 僕が悪かったのだ。僕が追い詰めた。僕が彼女に刃物を握らせたんだ。そんな気持ちがぐるぐると体の中を回転し、揺らす。その振動を止めようとして、悪かったのは僕だけじゃないんだと無意味な自己肯定の言葉を呟いたが、何も変わらなかった。僕が悪いということを、何よりも僕自身がはっきりと認識してしまった。僕はどこで間違えたんだ。どこで、食い違ったんだ。
 少しうずくまっていると、体の揺れが少しおさまった。気分は最悪だったが、立つことはできるみたいだ。立ち上がろうとして床に手をつくと、何かが手に触れた。見覚えのあるハンカチとくしゃくしゃになった何かの紙切れだ。これは僕のハンカチだ。床に倒れた拍子にポケットから床に落ちたようだった。僕はハンカチをポケットにしまい直し、紙切れを捨てようと思いながら見てみた。紙切れだと思ったが、よく見ると封筒だった。

 ――黒崎君へ

 小さな文字で宛名が書いてある。僕は心臓が止まりそうになった。この字はどこかで見たことがある。僕の記憶が正しければこれは西野さんの字だ。ハンカチと一緒に落ちたのだろうか。いや、そもそもなぜポケットに入っていたのか。ハンカチと一緒にまとめてポケットに入れてしまったのだろうか。そんな疑問が頭の中を巡ったが、それがどうでもいい些末な問題だと気づくまで少し時間がかかった。
 思い当たることがあったのでハンカチをもう一度ポケットから取り出した。薄青色のハンカチ。そうえばこれは西野さんに春先に貸したハンカチだ。何とも言えない淡い色が気に入っていたので覚えていたが、貸したことを忘れていた。
 封筒の封をゆっくりと開く。心拍数が上がっていくのを感じた。
 文字を追う。
 文字を追う。
 文字を追う。
 そこには彼女の本音が全て書かれていた。
 そして、僕が犯した過ちも、全て。



 鈍く灰色に光る雲が空を埋め尽くしている。
 空気はとても冷たく、皮膚が凍りそうだと思うほどだった。
 日はとっくに沈んでいたが、街の明かりは無遠慮に明るい。
「寒いね」
 濃い灰色のダッフルコートを着て隣を歩く三日月さんは、首にぐるぐると巻きつけられたマフラーを口元に押し当ててそう言った。クリーム色のマフラーは少し長すぎるようで、首元で何重にも巻きつけられひどくかさばっている。小さく呼吸をして白い息を吐き散らしている彼女を見ながら、僕は短くつぶやくようにして、「そうだね」と返事をした。
「もうすぐクリスマスだね」
「僕も今そう思ってた」
「あはは。まぁこんな風景だもんね」
 僕と三日月さんは同時に少し立ち止まり、二人で周りの様子を見渡した。耳を澄ますとどこか遠くから安っぽい打ち込みの音源で作られたクリスマスソングが聞こえてくる。駅前の町は賑やかだ。昔からある文房具屋や駄菓子屋の軒先も、簡素ながらもクリスマスの飾りつけがされている。町は赤と緑の配色に埋め尽くされている。
 クリスマスを一週間と数日ほど前にした土曜日の午後、僕は三日月さんと街を歩いていた。彼女に図書館に誘われ、数時間ほどそこで過ごした後、少し散歩しないかと誘われたのだ。僕はあまり気乗りしなかったが、三日月さんがついて来てほしそうだったので断れなかった。
「黒崎君、何か欲しいものある?」
「……特にないよ」
「さみしいなあ」
 ほんとに何も欲しくないので僕がそう言うと、彼女は苦笑いしがらそう言った。ほんとに何もいらなかった。西野さんの一件があってからというもの、僕の感情は自分でも恐ろしいほどに凪いでいた。もっとも、もともと起伏の激しい方ではなかったが。
「そういう三日月さんは何が欲しいの?」
「私は……えっと……」
 そう言いかけて、彼女は言葉を止めた。僕はその言葉の続きを待ったが、彼女は開いた口を慌てて閉じ、また開いたと思ったら突然違う話を始めた。
「黒崎君は、何歳までサンタさんのこと信じてた?」
「えーと」
 少し考えてみたが、両親からプレゼントをもらった記憶が無いし、ましてや十二月二十四日の深夜にプレゼントを置くなどという洒落たことなどして貰った記憶も無かった。だがその事情をいちいち説明しても面白くないし説明したくもなかったので、僕はさらっと嘘をついた。
「小学校二年生くらい、かな」
「早いなぁ……私は中学入ったくらいだよ?」
「それは逆に遅いような」
「夢とかロマンが無いと女の子に嫌われるよ」
 少し怒ったように口をとがらせて彼女は返した。
「ごめんね……夢もロマンも、僕には似合わない言葉だな」
「そんなことないと思うけどな……黒崎君は意外とロマンチックなところもあるよ」
「例えば?」
「よくわかんないけど、なんとなく」
 僕は乾いた笑い声をあげ、空を見上げた。相変わらず空を埋め尽くしている鈍色の雲が僕を睨み返した。雲の切れ間から半分以上かけた月が顔をのぞかせている。向けるべき言葉を、話さなければいけないことを、探るようにして、僕は月を見つめた。
「黒崎君、ほら、あれ」
「え? ああ……」
 突然三日月さんが声を上げ指を差したので、そちらを見てみると、大きなモミの木が駅前の広場にそびえ立ち、それがたくさんの飾りやイルミネーションで彩られていた。それを見るのを目当てに来たのか、多くの親子連れやカップルが、巨大なツリーを見上げていた。
「これが見たかったの?」
「うん。今年初めてやるって聞いたから……座ろっか」
「そうだね」
 ベンチに二人で腰かけると、視点が低くなったせいでツリーがより大きなものに見えるようになった。僕は黙ってその人口の造形物を見上げた。電飾でゴテゴテと飾られたツリーは、まるでサイズの合わないTシャツを着せられた人のように、どことなく窮屈なように見えた。だがそんな無粋なことを口にするほどの元気は無かった。
「黒崎君?」
「何?」
「その……なんでずっと黙ってるの?」
「そんなに黙ってた?」
 三日月さんが隣で心配そうに見上げているのを僕は気づいていなかった。僕は無理に笑って何でもないと言おうとしたが、上手く笑顔が作れなかった。
「このところ……ずっと、不機嫌だよね?」
「そうかな。ずっとこんなもんじゃない?」
「いや、そんなことない。なんかずっと難しいことというか、苦しいことを考えているような……」
「ああ、ほら、最近少し難しい本を読んでるから。ほら、さっき言ってた奴。そのことずっと考えてて……」
「うそつき」
 目を細めて、低い声で三日月さんが言った。あっさりと嘘を見破られた僕は黙り込んだ。しばらく接してみて分かったことだが、三日月さんは非常に勘の良い女の子だ。ほんの少しの仕草なんかをよく見ているような子だ。少し前まではそんなところにも魅力を感じていたが、今は……僕は少し焦っていた。
「本のこと考えてる黒崎君はもっと嬉しそうだもん」
「……そうなの?」
「自分のことって自分ではよくわかってないものだよ?」
 そういって彼女はうっすらと微笑んだ。
 僕は、その時の彼女を、美しいと思った。純粋な気持ちで、美しいと。僕は久しぶりに自分の心が揺れているのを感じた。これまで何度も見てきた三日月さんの笑顔の中で、最も美しい笑顔だった。
 だけどその感覚は尚更僕に悔悟と苦しみを抱かせた。僕は俯いて両ひざの上に置いた自分の拳を見つめながら、自分に言い聞かせた。僕はもう望んではならない。誰よりも自分自身がそれを強いている。
「だからね……」
 息の吸い込む音がして、僕は顔を上げた。うっすらと微笑んだままの彼女は、小さな声で、しかしはっきりと、流れるように言葉をつづけた。
「私も自分のことに気づくのは遅かったんだよね」
「え……?」
「はは、言っちゃった。もう引き返せないや」
 そう言って、三日月さんは乾いた笑い声をあげた。
「あのね、ずっと好きだったんだ。黒崎君がね」
 頭が真っ白になった。
「いつからだったっけ……いつからかはわかんない。ずっと前かも好きだったかもしれないし、ほんとに好きになったのはごく最近のような気もする」
 白い光が、目の前を通り過ぎていった。
 頬を刺すような感覚が襲い、それが雪の冷たさだと気が付くのに少し時間がかかった。今年初めてこの街を訪れた雪は、まちの上をきらびやかに舞い、どこからか子供の喜ぶ声が聞こえてきて、町が、町全体が、初雪を喜ぶ声で溢れる。こんなタイミングで振り出してほしくなかったな、と僕は心の中で雪に対して少し文句を言った。
 それでも三日月さんの目は動かなかった。僕はその視線に縛られるようにして、動けなくなっていた。
「とにかく……好きで、好きだから、付き合ってほしい、です」
 少し泣きそうな目で、それでも微笑みを消さずに、彼女は言い切った。そう言って、彼女は顔を隠すようにして俯いた。
 それでも僕は黙っていた。
 何も喉の奥から出てこなかった。
 言葉を忘れてしまったかのようだった。
 そうしている間に雪は少しずつ強くなっていく。でもそれはとても小さな粉雪で、地面に落ちると、アスファルトに吸い込まれるようにしてすぐに溶けていった。美しく、脆く、儚い。
 三日月さんとの思い出を思い浮かべた。高校になって暫くした頃に出会い、そこからずっと彼女は僕の隣に居た。友達なんてほとんどいなくて、人と交わるということをこれまでほとんどしなかった僕の生活の中に彼女は突然現れ、眩い光を放った。暗闇の中に居た僕はそれに目を細めるしかなかった。でも、徐々に、それが柔らかな月の光だと知った。僕はその中に夢を見た。美しく、楽しく、綺麗な夢。
「僕は……」
「……?」
 声を出そうとしたが、声帯が震え方を忘れてしまったかのように、動かなかった。
「僕は……じゃ、ない」
「え……?」
 その美しい思い出を、無慈悲にも焼き尽くすように、胸の奥底にうねっている記憶と感情がかき消していく。
 フラッシュバックする情景。
 僕の部屋。
 赤黒い水たまり。
 色を失った頬。
 そして罪の意識と後悔の念。
 僕は咎人だ。
 ――僕は彼女にふさわしくない。
「僕は、君が思うような、男じゃ、ない」
「……え?」
 今度ははっきりとした声が出た。うねるような真っ黒の感情は、溢れるように言葉を紡ぎ始めた。
「君は僕のことを知らない。君は僕にふさわしくない」
「そんなことないよ! 一緒に過ごした時間はほんのちょっとだけど……色んなところも行ったし、色んな話もしたし、それに!」
「違うんだ。君は知らない。僕が何をしたか……何をしてしまったか……」
 涙が出てきて、殆ど掠れ声になった。それでも僕は続きを言わざるを得なかった。
「僕は、汚くて、下品で、欲にまみれれて、自分のことしか考えてないような、最低の人間なんだ。 軽蔑されるべき人間なんだ。 君は……君だけは、そばに居ちゃだめだ」
「そんなことないって言ってるのに……なんで! 」
 三日月さんは怒って、声を荒げた。でもその方がかえって落ち着いたし、涙も止まった。僕は話を続けた。おしこめて隠していた言葉が、心のずっと奥底におしこめていた言葉が、逆流する水のように口から勢いよくあふれ出てきた。
「僕にはね。つい最近までセフレが居たんだよ」
「セ、フ……?」
「そう、セフレ。セックスフレンドの略ね。会いたいときに会ってエッチする友達。付き合ってるわけでも、結婚してるわけでもなく、ただエッチするだけの、肉体だけの関係」
「うそ……」
 言葉が、止まらなかった。
 自分の罪を、自分の穢れを、吐き出さずにはいられなかった。
 三日月さんは目を見開き、絶句していた。それでも言葉を止めなかった。
「嘘じゃないよ。きっかけは、向こうから誘われたんだけどね……肉体的な欲望を満たすためだけにオッケーしちゃったんだ。それから僕の家で何度もやったよ。君の想像もつかないくらい、沢山。三日ぐらい連続でやったこともあるし、一晩に何回もやらされたこともある。それでも気持ち良かったんだよ?」
「うそ! うそでしょ!」
「だから嘘じゃないってば。一緒にお風呂に入ってエッチしたこともあるし、ラブホテルにも行ったよ。一回だけ公園でやったこともある。ああ、そうそう、君と出会ってすぐに呼び出されてやったことも……」
 ここまで言って僕の言葉は止まった。
 虚空を切り裂くような衝撃音が響き、僕の頬を痛みが襲った。
 僕は人に暴力をふるったことも、ふるわれたことも記憶にないが、こういう痛みなんだ、とぼんやり思った。
「……それを」
「え?」
「それを、私に言って、何がしたいの?」
 三日月さんは強く僕を睨みながらそう質問した。僕は心から穏やかな気持ちになって、少し微笑みながら返事をした。
「失望したでしょ?」
「……少し」
「ダメだよ。もっと失望しなきゃ」
 僕は冗談めかして言ったが、彼女は顔の筋肉をぴくりとも動かさなかった。僕はゆっくりと音も無くため息をついた。少しの空白と白い靄が二人の間に漂う。
「私は信じない」
「それは君の勝手さ。真実は違う」
「あなたがなんと言おうと、信じない」
「ご自由に」
「私と付き合いたくないから、私に諦めさせようとしてるんだって思う」
 僕は何も言いかえせなくなった。それは半分は真実だったからだ。その反応を見て彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。雪はどんどんと強く、大粒になってきていたが、不思議と顔に当たっても冷たさは感じなかった。
「そっか、フラれたのか……ははっ」
「……」
「この数か月間ね、いろいろ考えたんだよ。どうやって会う口実を作ろうかなとか、どうやって一緒にいようかなとか、どうやったら私のこと好きになってくれるのかな、とか」
 僕は何も言葉をかけられなかった。三日月さんの悲しそうな顔を見ていると、胸が苦しくて仕方が無かった。
「文化祭の時ね。手、繋いだでしょ? 覚えてる?」
「……うん」
「あの時ね、嬉しくてね……黒崎君も私のこと、好きなんだなって。泣きそうでさ」
 そう言って三日月さんは立ち上がった。僕に背を向けて遠ざかっていく。その背中をじっと見つめていると、六歩ほど進んで彼女は振り返った。
「最後に、一つだけ、聞いていい?」
「……どうぞ」
「私のこと、好き?」
 彼女はさっきの微笑みを浮かべたまま、明るい声で僕に質問をした。
 僕は黙っていた。答えなかった。
 でも彼女は頷いてその場を去って行った。雪はやむ様子も無く振り続けていく。彼女は漂う人ごみの中へと溶け込むように消えていった。
 僕は深く溜息をつき、目を閉じた。数か月間、短かった僕の恋が、初恋が、終わった。終わったという感覚は無い。そもそも始まってなかったと言った方が僕の感覚には適応した。罪を背負った人間に幸せになる資格は無い。
 僕の見えない所で彼女は泣くのだろう。この人ごみの中かもしれないし、自分の部屋の隅かもしれない。泣いて、悲しんで、僕を憎めばいい。僕を憎んで、僕を悪者にして、そして僕を忘れればいい。最初からいなかったと思えばいい。僕は三日月さんを傷つけてしまった。だけど、僕と付き合っていれば彼女はもっと傷つくことになったはずだ。だから、これで正しかったんだ。
 でも、ずいぶんと遠くまで行ってから僕は小さな声で呟いた。
 僕も、好きだよ。これからも。ずっと。



 放課後の図書館。
 僕は本を手に取っていたが、文字が全く頭に入ってこないので、読んでいるふりをして目を閉じていた。あの日、三日月さんと別れてから、勉強も、読書も、家事も何も手につかなかった。食欲もほとんどなく、毎日コンビニのパンを一つ食べる程度だった。生きる気力を無くしていたというべきかもしれない。
 三日月さんが生活の中から消えたことで、学校はまた誰にも話しかけられないモノクロームの空間になった。彼女は同じクラスなので毎朝顔を合わさなければならなかったが、決して目は合わさなかった。彼女の友達がすれ違いざまに睨んだり舌打ちをしたりしたことが数回あったが、特に気にしなかった。敵を作るのには慣れている。
 机に置いてあった自分の携帯電話を持ち上げて片手で開き、時間を確認した。バックライトの光に目を細めながら数字を読むと、下校のチャイムが鳴るまでずいぶんと時間があることがわかる。家に帰る気にもなれなかったので、とりあえず椅子に深く座り直し、下校時刻になるまで何とか本を読もうとする努力を続けることにした。
 携帯電話をなんとなく握ったままでいた時、ふと西野さんのことを思い出してしまった。二、三日前に一度廊下を歩いているのを見かけたので、彼女はまた学校に来ているようだった。当たり前だがまだいじめは続いているのだろう。彼女の苦しみに比べたら自分の状況なんて特に辛くも無い。少し前の状態に戻っただけだ。
 僕は本を読むことをあきらめた。いくら活字を目で追おうとしても、頭がそれについていこうとしない。僕は本を閉じて、音をたてないように気をつけながら、図書館の長机の上にそっと置いた。
 なんとなく気まぐれで立ち上がり、窓に近寄る。窓の近くは他の場所より寒く、僕は少しだけ身震いをした。そこから空を覗き込むと、窮屈そうに詰め込まれた濃い灰色の雲が僕を見つめていた。向こうの方を見つめると、汚れた建物が立ち並ぶ街が霞んで見えた。少し向こうに僕の家がある。あの向こうに、三日月さんと喧嘩をした駅前の広場があり、そのずっと向こうに、父親と母親が務めている病院がある。こういう風景を見ると、いつも僕はこう思う――これが僕の世界なんだ、と。
 地図を見てるぶんにはそこにあるんだなということを知ってはいるが、自分自身の世界、つまり僕のための世界は僕が僕が関わったものでしかない。外国のどこかの町の隅の方の薄汚れた貧民街なんて僕は知識でしか知らない。それは僕のための世界ではない。もう少し大きくなれば大学に行くかもしれない。働き出すかもしれない。そうすれば僕のための世界は大きくなる。でもそれは地図の中の世界のほんのちょっとでしかない。
 あまりにも空虚な考えだ。
 しかし存在とはそんなものではないか。
 手に痛みを感じてふと目を落とすと、無意識に拳を強く握っていて、自分の爪が手のひらに食い込んでいた。僕はわざと音を立ててため息をついた。そして恨んだ。無益な妄想しかできない自分の矮小さを。そうして自分の中を埋めようとしている無謀さを。そして、意味が無いとわかっているのにそれでもそうすることしかできない愚かさを。
 何も変わらない、
 何も変えられない、
 その非力さを。



 何秒たったか。
 何分たったか。
 何時間たったか。
 とにかく、時間の空白の後、僕は目を覚ますようにして我に返った。何も考えずにただ静止していたようだ。僕はそれまで何を考えていたかもはっきり思い出せない。少し辺りが暗くなっている。いい加減に帰ろう。
 視界の隅に少し奇妙なものが入ったので窓から下を見つめた。校舎の陰になっていて普段誰も近づかないスペースだ。そこに数人の男女が集まっていた。誰かを中心としていびつな円になるようにして立っている。悪い学生が誰かをいじめているのかと思って、中心にいる子には悪いなと思いながらも、関わらない方が良いだろうと僕は目を逸らそうとした。
 だが、その中心にいる人をはっきりと捉えた時――。
 そこから後のことを僕は覚えていない。
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