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第7話:彼の焦燥と彼女の憔悴

▽12/11/28更新分から読む


 これが、私への罰だとしたら。
 望んではならない夢をみた私への罰だとしたら。
 こんなことで許されるのならそれで良かった。
 もう一度、私を見てもらえるのなら。
 もう一度、あなたに触れられるのなら。



 十一月末。冬の足音がすぐそばに迫っている。朝は空気が凍ってしまったかと思えるほどに冷え込む。
 教室のドアを開けると、何人かの人が私を一瞬だけ私の方を見た。でも、まるで見てはならないものを見てしまったかのようにすぐに目を逸らす。私はコートの埃を払って気を紛らわそうとした。だけど、すっかり淀んでしまった気分は特に何も変わらなかったことにがっかりした。
 朝だというのに誰も挨拶もしない。誰も目も合わせない。まるで私は空気になったかのように教室の中を歩いた。空気は違うな。空気ならみんなの役に立っているからまだマシだよね。私は疎まれている。気体で例えるならアンモニアとかの方がまだ近いかもしれない。
 自分の席にたどり着いたので、机に異常がないか確認する。ぱっと見たところでは特に異常は無かった。昨日はどこで集めたんだってくらい大量に生ごみが置かれていたので処理にひと苦労したんだけど。机の中も確かめたが特に異常は無かった。一度机の中を水浸しにされて数学のノートが使い物にならなくなったんだけど、それで学習して机の中に何も入れないようにしていた。
 私は安心して机の横に鞄を引っかけ、椅子に座ろうとして手を伸ばしてそこでやっと気がついた。
 椅子が無かった。
 どこかから小さな笑い声が聞こえたような気がした。教室の隅に目を向けると、五、六人の女子たちが私から一気に目を逸らした。恐らくやったのは彼女たちだ。地味すぎる。私なら机ごとどっかにやってしまうだろう。まぁそんなこと絶対にしないけど。
 私はため息をついてから、もう一度鞄を肩にかけ直して教室を出た。授業に遅れまいと早足で歩く人々が私の横をすり抜けていく。後ろから何か聞こえた気がしたが特に注意を払わなかった。
「どうしよっかな……」
 独り言を言ってみたけど、かすれたような声が喉から滲み出ただけで、特に何もいい考えは思いつかなかった。椅子を探して教室に戻って授業を受けてもいい。多分そこまで遠くまで行っていないと思う。でも、今日はそんな気分じゃなかった。保健室に行ってもいいけど、校医にまたお前かと思われてしまうのも嫌だった。だから誰もいない所で何も考えないようにしようと思った。
 私は少し早足で階段へ向かい、階段にたどり着いてからはゆっくりと登った。一歩一歩歩くごとにそのリズムが耳の奥で反響した。
 屋上に足を向ける度に少し期待するような気持ちが胸の奥で疼いていた。階段を登れば、屋上の扉を開ければ、そこに彼がいるかもしれない。人と接するのが苦手で、一人で居たがっている彼がいるかもしれない。そんなありもしない期待を私は捨てられなかった。
 扉を開けたが、もちろん彼は居なかった。
「当たり前か」
 私は呟いたが、晩秋の透き通るような薄青色の空は、何も答えを返さなかった。



 長い時間が過ぎたような気がする。
 ベルが授業開始と授業終了を何度か告げたが、回数を数えることも忘れて私はただただ茫然としていた。目を閉じて、息を吐く音を聞く。眠ろうとしたが眠れず、無益な考えが脳内を巡っていた。
 こんな状況になったのはいつからだったっけ。
 文化祭を終え、文化委員長を辞めたくらいだったから、十一月の初めくらいからだったのかな。よく覚えてないし、ずいぶん前のことのように感じているが、実際の所ひと月も経っていない。
 文化祭を終えた頃、私と谷山君の仲はどんどん悪くなっていた。修学旅行で彼の誘いを断った辺りから、私に対して不信感を持っていたらしい。直接言われたわけではなかったが、浮気をしていると思われていたみたいだ。
「陽菜は俺のことを見てない」
 そんな感じのセリフを何度も聞いた。私は必死に弁解したが、谷山君の疑いは止まらなかった。これは推測だけど……私を快く思っていない女子のグループがあらぬことを吹き込んでいたんんじゃないかと思う。サッカー部の追っかけみたいな連中だったから、谷山君とも繋がりがありそうだった。
 ある日の放課後、遂に教室で大喧嘩になってしまった。谷山君の嫌味に耐え切れなくなって、証拠もないのにどうして疑うの、と私が怒鳴ってしまった。すると、谷山君も大声で怒鳴った。
「じゃあ、文化祭の日に屋上で誰と話してたんだよ!」
 そう言われた時、私はあからさまに反応が遅れてしまった。ずっと黒崎君のことばかり考えていたからだ。もちろん私は急いで弁解した。屋上に行って休憩はしたけど誰とも話してないし、一年生の男子がいたような気がするけど覚えていないと言ったが、彼は私の反応の方に重きを置いたみたいだった。
「別れようか」
 谷山君がため息交じりにそう呟いた時、このセリフを聞くのは二度目だなと思いながら私は静かに頷いた。黒崎君の言っていたことが当たってしまった。屋上には壁も障子も無かったが、耳と目はあった。運の悪いことに、私に敵意を持った人が私を見ていたんだろう。そうでないと谷山君にあんな形で伝わるはずがない。
 その次の日からだった。皆が私を無視するようになった。瀬川さんなんかは谷山君に近かったから真っ先に口を利かなくなり、祥子も私と話さなくなった。地味な嫌がらせが増えた。最初のうちはペンが壊されているとかその程度だったので、特に気にせず耐えていたけど、私が黙っていることを良いことにどんどん激化していった。物が無くなり、机が無くなり、椅子が無くなり、私の居場所などないと言われているように感じた。
 教室が、廊下が、黒板が、私をこの学校から追い出そうとしているみたいだった。
「陽菜」
 ふと声をかけられて目を開けると、目の前に祥子が立っていた。私は少し驚いて、背筋を伸ばして姿勢を整えた。
「どうしてここに?」
「勘だよ……」
 久しぶりに祥子の声を聞いた。そんなに時間が経ってないというのになんとなく懐かしいような気持になった。
「教室、戻らないの?」
「うん。嫌だし」
「そう、だよね……」
 二人の間に嫌な間が訪れる。まるで言葉を出せなくなったかのように顔をこわばらせる祥子を見て、私は安心させるように精一杯の作り笑いをした。
「最近話せてなかったけど、元気?」
「うん……まぁまぁ」
「良かった。最近寒いから体調崩してなかったかな、と思って。去年も似たような時期に風邪ひいてたでしょ?」
 私は何事も無かったかのように話しながら、これまで作り笑いをこんな風に使ったことが無かったなと思った。久しぶりに笑い顔にしたので、表情筋が強張っているような気がした。
「コートとか着て厚着してないと……」
「陽菜……ごめんね」
 祥子は泣いていた。前にもこんなことがあったっけ……泣きたいのは私のはずなのに、祥子が泣いている。前はものすごく苛立っていたような気がするけど、今回は嬉しかった。
「綾ちゃんとかが突然陽菜のことハブろうって言い出して……みんな陽菜に悪口言い初めて……」
「祥子……」
「みんな嫌がらせまで初めて……私、私……私は、なんも言えなくて……」
「祥子」
 私は祥子の手を握った。温かい手だった。
「早く帰りなよ。こんなところで私と喋ってたら、祥子までいじめられちゃうよ」
「でも!」
「お願い。戻って」
 私はゆっくり立ち上がり、ポケットに入っていたハンカチを取り出し、祥子の涙を拭いた。薄い青色のハンカチ。黒崎君のハンカチ。そういえばなんとなく返すの忘れて使ってたな。祥子は泣き止んだが、それでも悲しそうな眼をしていた。
「じゃあ、陽菜……一つだけ、聞かせて?」
「何?」
「みんなが言ってるんだけど……私は嘘だって思ってるんだけど……」
 祥子は聞いていいか迷っているような顔つきをしていたので、私は言葉を促すように黙って頷いた。なんとなく聞かれるかなとは思っていた。私は口の中に溜まった唾液を喉の奥に落とした。
「陽菜が、一年生の男の子と浮気してたって……本当?」
「……してないよ」
 私はゆっくりと首を振った。
「してない」
 繰り返した。
「そう、だよね。陽菜がそんなことするはずないよね……」
「もういい?」
「うん。ありがとう」
 祥子は微笑みを浮かべた。私が小声でもう行った方が良いよ、というと、祥子は私に背を向けて屋上と校舎を隔てる扉の奥へと消えていった。
 私はまた地面に座り込んだ。
 嘘はついていない。彼との関係はあくまで「オトモダチ」。付き合ってはいないし、浮気とは言えないはず。だけどどうしてこんなに嘘をついたような気持ちなんだろうか。彼と肉体関係があったからか。祥子の純粋な優しさに触れてしまったからか。
 いや、違うか……。
 今でも黒崎君が好きだからか。



 祥子が行ってしまってからもずっと屋上にいた。フェンスに寄り掛かって空を見上げていたけど、三年生のカップルが弁当を抱えながらこそこそと屋上に入ってきたのを見て、昼休みが始まったのだと知った。三年生のカップルは私を見て一瞬びくりとしたようだったが、私がカバンを抱えて出ていこうとしているのを見て、安心して隅の方に腰を下ろしていた。
 屋上を出たものの、行くあては全くなかった。早く帰ってしまっても良かったが、早く家に帰れば親に怪しまれてしまうので避けたかった。でもどちらにしろ無断で授業を休んでしまったので何か連絡が言っているかもしれない。体調が悪いということにして帰った方が良いかもしれないと私は思い直した。
 一階まで下りていくと、購買や食堂の方へと忙しく歩く人の群れにぶつかった。楽しそうに話しながら歩く一年生の女の子のグループ、気怠そうに後ろ髪を弄りながら歩く二年生の男の子、大声で笑いながら歩く三年生の女子のグループ。私は人の流れに逆行するようにして下駄箱へと歩いた。私は一人だった。孤独だった。
 なんとか下駄箱に着いたが、下駄箱の扉を開いて靴が無くなっていることに気がついた。私は周囲に人がいるかもしれないことなど忘れて、遠慮なく大きな音で舌打ちをした。少し戻って周囲を見渡したけど見当たらなかった。こういうのはたいていの場合、見つけた時に不愉快になるような所に置いてあるものだ。そうだな……トイレの便器の中とかに有りそうだな。そう自分で検討をつけながら少しぞっとした。
 下駄箱から一番近いトイレに向かう。食堂の方向なのでやっぱり人は多い。私は何も考えないようにしながらずっと前を見て歩いていた。行きかう人の顔や背中を見ながら、何も考えないように、何も考えないように。何か考えたら涙が出るかもしれないという感覚が私を締め付けていた。
 ふと前を見ると、人ごみの中に、見覚えのある背格好の男の子の背中があった。自分の心臓が肋骨の奥で飛び跳ねた。
 癖のあるショートカットで、ひょろっと背が高い。猫背気味だが、重心がほとんど揺れない歩き方でゆっくりと静かに歩く。初めて出会った時と同じだ。私は声をかけたいと思った。そして声をかけようと思った。何かを話したいとか、何かを聞きたいとか、そういうわけでもなく、ただ、声が聴きたかった。顔が見たかった。
 私は手を伸ばした。
 ――でも、だめだった。
 私は伸ばした手を力なく投げ捨てた。人ごみの中で立ち止まる。周りの生徒が私を怪訝そうな目で見ながら避けて歩いていく。どうして、どうして。どうしてという言葉が大きな軌道を描きながら脳内を回った。
 私は彼に背を向けた。靴を探すのが面倒になった。私をいじめているであろう女の靴箱はわかる。そいつのを勝手にはいて帰ろう。学校指定のローファーだろうし、多分サイズも近いだろう。それでいい。とにかく、一刻も早く私はこの空間から立ち去りたかった。もう彼を見たくなかった。ほんの一瞬でも、話しかけても大丈夫だと思った自分を否定したかった。
 そいつの靴箱を開けると、思った通り私のと同じサイズの学校指定のローファーが現れた。私はそれを乱暴につかむと、地面に叩きつけるようにして置き、足を無理矢理差し込んだ。履きなれていない靴の感覚が足を包んだが、履ければそれで良かった。
 外に出ると、日差しは暖かかったけど、空気は肌を指すように冷たかった。私はマフラーを握りしめるようにして引き上げて口元を隠し、門へと歩き出した。外でお弁当を食べている人が荒々しく歩く私を怪訝そうな目で見ていた気がしたが、もう何もかもがどうでもよかった。自分が自分であることが、嫌で、嫌で、仕方が無かった。
 先程の彼の様子ができそこないのパラパラ漫画のように頭の奥の方でひらひらしている。彼は横を向いて笑っていた。私の見たこともないような優しい微笑みを浮かべていた。彼の隣には、あの背の低い女の子が歩いていた。どうして私はあの隣に居れないんだろう。どうして、私は、どうして……。
 無意識にポケットの中のハンカチを強く握りしめていた。私はそっとそのハンカチを取り出してみた。祥子の涙はもう乾いてしまっているようだったが、私が握ったせいで皺ができていた。透き通った空のような薄青色。
 それを見ていると、何もかもがどうでもよくなった。
 何もかもが。



「久しぶりだね」
 扉を開いて出てきた黒崎君は、起伏が少なくトーンの変わらない声で私を迎えてくれた。私は黙って彼を見上げた。
「寒いから早く中に入りなよ」
「ありがとう」
 私がそういうと彼は少し面食らったような顔をしたが、手を擦り合わせながら部屋の奥へと歩いて行った。体についている肉の少ない黒崎君は、多分寒さに弱いんだろう。
 電気のついていないリビングはカーテンを閉めていないために、大きな窓から沈みかけの太陽が放つ弱弱しい光が差し込んで青みがかっていた。暫く来ないうちに家具の配置が少し変わっている。机とベッドの位置が変わったみたいだ。難しそうな漢字や無機質な英語が背表紙で踊っている本が並んでいる。
 私は黒崎君のベッドに腰掛けて、シーツの皺を取るように撫でた。黒崎君はキッチンの方から声をかけた。
「何か飲む?」
「……いいよ、別に」
「ほんとに何もいらない? いきなり来たから何も用意してないし、食べるものも何もないけど……」
「ううん。食欲がないの。ごめんね」
 私は黒崎君に微笑みながら返事をした。今何か飲んだり食べたりしたらすぐに吐いてしまいそうだった。それくらいに気分は悪かった。
「ほんとにいきなり来たんだね」
「まぁ……思い立った日が吉日かな、と」
「ふーん……」
 黒崎君は手に持ったマグカップを口に当てて傾けた。何を飲んでいるのかは見えないけれど、コーヒーの匂いがするから、多分コーヒーだろう。
「それで、今日来たということは……」
「うん。そうだね」
 私は笑った。作り笑いじゃなく、心の底から微笑んだ。察してくれたのか、黒崎君は黙り込んだ。これ以上黒崎君が質問を投げかけたら、私は泣いてしまうと思った。私は息をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「今日も見たけど……かわいい子だね」
「そう思う?」
「うん。真面目そうで、素直そうで……でも何か、わかってる目をしてる」
 私とは違って、と心の中で呟いた。彼女は、三日月さんは、黒崎君が求めていた何かを知っていた。私は気づけなかった。いや、多分、私は自分のことばかり考えていて、気づこうとしていなかっただけなのかもしれない。
「どうして仲良くなったの?」
「本の話、かな。大きいきっかけは。でもそれ以上に……多分気が合ったんだよ。互いに」
「黒崎君と気が合うって……」
「まぁ相当変な子であることは否定しないよ」
 そう言って黒崎君は苦笑いした。どことなく嬉しそうだった。黒崎君は彼女のことが本当に好きなんだな、と私は思った。
「それで、付き合い始めたの?」
「いや、一緒に勉強したり、どこかへ出かけたりとかはしてるけど……」
「けど?」
「うん、まぁ……まだ、付き合うかどうかって話はしてない」
「……なんだ。黒崎君はヘタレのままか」
「まぁ、否定はしないよ……まぁお互い恥ずかしがりだから」
 そういって恥ずかしそうに笑う黒崎君を見ていると、胸が張り裂けそうだった。黒崎君と二人でどこかへ行く自分の姿を想像してしまった。手を繋いで、何気ない話をしながら、二人で海や山へと行く。あり得ない世界だ。夢の中の夢のような、幸せすぎる世界。
 でもそれは私の世界ではない。黒崎君と、三日月さんのために用意された世界だ。罪を背負っている私には入れない。望んではならない。
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 涙を堪えるために黙り込んでいた私の顔を覗き込むようにして黒崎君は尋ねた。私は作り笑顔を返そうとしたが、失敗した。顔が醜く歪んだだけだった。
「西野さ……」
「私はね」
 大きな声で黒崎君の声を遮るようにして話を無理矢理続けた。でも黒崎君の顔を見ないようにした。自嘲するように、投げ捨てるように、言葉を発した。
「今日で終わり。明日からは黒崎君とは何も関係ない人なの。学校は一緒だけど学年も違うし、もう二度と話すことも無いの。いい?」
「……」
 黒崎君は黙ってこちらを見て頷いただけだった。私は何も隠さなかった。いや、隠せなかった。笑顔なんて作れなかったし、声は掠れたし、涙は止まらなかった。
「それと、できれば……できれば、私のことは、忘れてほしい。いなかったんだって。最初から、いなかったんだって」
「それは……難しいと思う」
 目を伏せながらそういう彼を見て、私は「だよね」と小さく息を漏らすようにして笑った。お互いに初めてを捨てあったのに、何度も何度も汚しあったのに、そうやって長い時間を過ごしたのに、忘れられるはずも無い。その通りだ。
 私は黒崎君にのしかかる様にして抱きついた。彼はいつものように私を抱き留めてくれた。私は彼の温もりを噛みしめた。これで最後だと自分に言い聞かせ、骨まで彼の体温を染み込ませようとした。
 唇を重ねた。黒崎君は舌を入れようとしたが、私は直ぐに離した。それを見て黒崎君は少し驚いたような顔をしたが、黙って人差し指で私の涙の跡をなぞった。息がかかるほど近くで黒崎君は呟いた。
「これで、最後なんだね」
「うん、さいご、だね」
 私は笑った。
 作ったのか、心の底から出たのか。
 もう何もわからなかった。



 終わった後、黒崎君はいつものようにシャワーを浴びに行った。彼が見えなくなるまで眠たがっているふりをして、ベッドの中に潜り込んでいた。
 彼が風呂場に入ったのを確認してから、私は布団を抜け出した。きちんと服を着て、鞄から用意しておいたものを取り出す。無地の封筒に入れた手紙。封筒の前面に小さく「黒崎君へ」と書いておいた。封はしていなかったので開けて読み直してみたけど、文章は頭に入ってこなかった。
 それを机の上にそっと置いた。それからふと思い出して、薄青色のハンカチをポケットから取り出した。結局ハンカチのお礼は言わなかったなとぼんやりと思った。
 それから最後に、用意したカッターナイフを取り出した。スライダーをゆっくりと滑らせると、カチカチカチという子気味良い音が、もう暗くなった室内に反響した。
 痛いかな。
 いや、この胸の痛みに比べれば――。



 最後に見えたのは、
 何度も切り刻まれてズタズタになった自分の左手首と、
 フローリングに滝のように流れ落ちる血液。
 そして私は目を閉じた。
 闇が私を迎え入れてくれた。

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