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第6話:彼の希望と彼女の絶望

▽12/10/16更新分から読む ▽12/10/21更新分から読む ▽12/11/09更新分から読む


 暗い部屋に一人。
 あるのはたくさんの本とたくさんの時間。
 僕にとってはそれが全てで、それが僕の幸せだった。



 十月。文化祭。
 エネルギーを発散し続ける熱の塊が学校の中をうねっているような感覚だ。僕は居心地の悪いような、呼吸のし辛いような気持で校内を歩いていた。文化祭と言えば、日々勉学に励むためにある高校の校舎が、その数日間だけを勉学以外のもので満たされる時間だ。普段退屈そうに机に向かっている生徒たちは、みな思い思いのものを手に持って生き生きと蠢く。
『それでは二日間の夢を、十分に楽しんで下さい』
 という妙に鼻にかかるような表現の生徒会長の開催宣言で文化祭が始まった。その後に文化委員長が簡単な諸注意を述べた。いつも通り西野さんは学校では真面目だ。だから僕もいつも通り手にペーパーバックの本を持って、図書室へと足を進めた。これから二日間の文化祭の間、ずっと本を読んで過ごすつもりだった。この文化祭でやるべきことは僕には何もないからだ。
 僕のクラスを含め、一年生のクラスは演劇をやることになっていたが、僕は小道具係でいくつかの小道具を事前に作っただけでお役御免となった。演目は、最初のアンケートで僕がこっそり候補に加えたシェイクスピアは僕含めて二票しか票が入らず、結局三谷幸喜か誰だったかの喜劇をやることになっていた。黙っていたがかなりガッカリした。
 図書室には殆ど誰もいなかった。窓から入ってくる弱めの太陽光が、図書館全体に停滞した雰囲気を作っていた。図書館の中には僕のように暇を持て余しているらしい人たちが数人椅子に座って本を読んだり自習をしたりしている。仲間がいたことに少し安心しながら椅子に腰かける。文化祭の日に読書や勉強をしている僕らは異端だろうか。客観的に見れば変だと思うし、素直に文化祭を楽しもうとしない僕らは異端だと言えるだろう。だが僕はまだ聞こえない他人の評価は気にしない性質なので、特に気にせずに本を開いた。
 今読んでいるのは、百個ほどの思考実験とそれぞれに対する解説が載った本で、修学旅行のお土産として西野さんからもらった本だ。名前は覚えていないが京都の変わった本屋さんでたまたま見つけたらしい。話には聞いたことがあったが、読んだことは無かった本だったので、僕は彼女の買ってきてくれたお土産を素直に喜んだ。一つの思考実験を読み、それに対する解説を読み、目を閉じてそれについて考える。偶にメモを取り、頭の中を整理し、自分ならこう答えるかな、と考えていく。読むというより考えてしまう本なので、かなり長い期間楽しんでいる。
 そういえば西野さんが修学旅行に行っている時、突然夜中に電話がかかってきてこの本の中に載っていた思考実験について質問された。あの時は半分寝惚けながら答えたので特に深く考えていなかったが、彼女が言っていた思考実験の内容から鑑みるに、彼女にも思うところがあってあの質問をしたのだろうと思う。何か思うところがあったのだろう、ということまでしかわからないが、意味もなくあの問題をぶつけてきたとは思えない。彼女はどんな含蓄を込めてこの質問をしたのだろうか。
「くーろさきくーん」
「……節をつけて呼ばないでよ」
「えへへー」
 少し目を本から離すと、よく見知った幼い顔立ちが視界に映った。気が付いたら三日月さんが隣に座っていた。何がえへへなんだろう。
「探したよ」
「なんでここにいるってわかったの?」
「まぁ、黒崎君なら、『この文化祭でやるべきことは僕には何もないな』とか言ってまた一人で本でも読んでるんだろうなって思っただけだよ」
 さっき僕が考えたことと一言一句違わないセリフを、僕の声を真似しながら三日月さんが並べた。確かに僕の行動なんて本読んでるか食べてるか寝てるかで八割が埋まるから、読みやすいと言えば読みやすい。
「どう、似てるでしょ」
「悔しいけど否定できないね」
「あはは、悔しいなんて思ってないくせに」
 僕は笑っただけで否定はしなかった。なんでこの子は僕の思考を読むのが得意なのだろう。まぁ、暫く僕と過ごせば僕の思考なんて簡単に読めるようになると思うけど。
「三日月さんは? 友達と回ったりしないの?」
「一緒に回りたいような特に仲良い友達は、今日の午前中は部活の出し物とかでみんな忙しいみたい。だから午前中フリーなのは黒崎君だけなの」
 さりげなく彼女の「特に仲良い友達」に入っていることに僕は内心動揺した。
 夏休みに彼女と図書館と喫茶店で過ごして以来、僕らはじわじわと距離を詰めるようにして仲良くなっていた。趣味も考え方も近い二人だ。仲良くなるのに不自然なことは無かった。週に一回は彼女と図書館に行っていたし、学校では彼女と過ごす時間が増えた。
「それで、僕はこれから二日間本を読む予定が詰まってるんだけど」
「やだなー! これまでの話の流れでわかるでしょ」
「わからない」
 ということにしておいた。すると彼女は少し顔を膨らませながら僕に顔を近づけて来て、囁くように耳元で言った。
「……黒崎君のうそつき」
「はぁ……わかったよ……」
 僕は負けたよ、と呟きながら両手を挙げて椅子から立ち上がった。僕の腰は椅子を求めていたが、無理矢理引き剥がすようにして立ち上がった。
「で、どこから行くの?」
「黒崎君の行きたいところの方が興味があるな」
 そう言って彼女に文化祭のパンフレットを渡されて初めて、そもそもパンフレットすら開いていないことに気が付いた。



 ボランティア部の展示はとても面白かった。募金されたお金がどのように動くのかという内容で、下手すると自分たちの活動を否定しかねないような歯に衣着せぬ内容だったのがツボに入った。僕は一人でニヤニヤしながら読んだ。
 鉄道研究同好会の写真展示も面白かった。僕はよく知らないのだが、人里離れたところにある寂れた無人駅(秘境駅、というらしい)の写真展示をしていた。部員が実際に行って撮ってきたらしい。写真からあふれ出る何とも言えない退廃した雰囲気が心地よかった。
 映画同好会の展示も面白かった。日本映画史概論と名付けられたその展示は、日本の映画界に衝撃を与えた有名作品を紹介し、その特徴や影響を詳細に解説していた。ネタバレスレスレの作品解説は、家に帰って久しぶりに映画でも見ようかと思わせるほどだった。
「展示ばっかり見るんだね」
「……言われてみればそうだね」
 映画同好会の展示室を出たところで退屈そうに三日月さんが呟いたので、僕は思わず立ち止まった。三日月さんは少し顔を膨らませてそっぽを向いている。文化系の同好会の展示教室の並ぶ廊下は、照明が切られているために少し薄暗い。僕が行きたいところに行って良いというから、何となくタイトルに心惹かれた展示ばかり見に行った結果がこれなんだけど。
「退屈だった?」
「割と。黒崎君ってとことん人がいない所が好きなんだね」
「そういうつもりじゃなかったんだけどな……三日月さんは、どこへ行きたいの?」
「んー……まぁ私もそこまで行きたいところは無いんだけどね」
 僕が苦笑いすると、三日月さんもつられるようにして笑った。それからどこへ行くというわけでもなく二人で歩き始める。彼女の歩幅が小さいので、僕はそれに合わせるようにして歩いた。彼女も僕の歩幅に合わせようと少しスピードを上げて歩こうとするのだが、歩くのを覚えたての子供の様な歩き方になるものだから見ていて危なっかしい。
「そういえば、三日月さんは部活とか入ってたんだっけ」
「うん? 最初ね、天文部と文芸部に入ってたんだけど、両方辞めちゃった」
 そういえば今まで聞く機会が無かったので聞いてみると、彼女は明るい声でそう答えた。僕はそれを詳しく理由を聞いていい合図だと思った。
「どうしてやめたの?」
「文芸部はね、みんなライトノベルっぽいのしか書いてなくてね。それ以外の文章、例えばエッセイみたいなのが書き辛かったから」
「好きに書いてればよかったんじゃないの?」
「まぁ、それ以外にも色々と……みんなプライドを持って文章を書いてる人たちだから、独自の世界観があって、それで喧嘩とか、まぁ、色々あって……」
 言葉を濁したので今度は詳しく聞かないでおいた。確かに文芸部に所属している人たちは男子も女子も一癖ありそうな人たちなので、なんとなく事情は察した。嫌なことを思い出してしまったのか彼女が少し黙ってしまったので、僕は会話を進めることを促した。
「それで、天文部は?」
「……私ね、月とか星とかを見るのが好きなんだ。小さな頃から」
「へぇ」
 ロマンチックな趣味だなと思った。名前が三日月美月だからだろうか。
「言っとくけど私の名前は関係ないよ……いやあるかも」
「どっちなの」
「わかんないけど、昔っから『月みたいに綺麗な子になってね』ってお母さんに言われてたからかな。月は好きだったし、空を見上げてれば星も好きになってた。小学校の時天体望遠鏡を買ってもらってね、今でも晴れた夜、偶に庭で空を見てるんだ」
 彼女は「綺麗にはならなかったけどね」と笑って言ってから、そこで少し言葉を切った。そんな趣味のことを全く知らなかったので僕は感心していた。小さな身長で必死に望遠鏡を覗き込もうとしている三日月さんを想像して、笑いそうになったので頬の内側の肉を噛んで誤魔化した。
「それで天文部に入ったんだけど、まぁ、人間関係とかがややこしくて、辞めちゃったの。天体観測は好きなんだけどね」
「人間関係っていうのは……」
 詳しく聞いちゃいけないような気がしたが、反射的に聞いてしまった。しまった、しくじったなと思っていると、彼女は立ち止まって、僕を見上げて、僕の目を覗き込むようにして質問をした。
「聞きたい?」
「……ちょっと」
 聞きたくないと言えば嘘になるし、どちらかと言えば興味があった。彼女は以前より少し伸びてきた前髪をいじりながら小さな声で僕に質問をした。
「まぁ黒崎君には言ってもいいのかな……黒崎君って口は堅い?」
「堅い方だと思うよ。まぁそれ以前に噂話をするような友達がいないけどね」
「それもそうか」
 彼女は全く否定しなかった。少しくらい躊躇ってくれてもいいのに。まぁ自分でも否定できないことなのだから仕方がない。彼女は少し考えるような表情をした後、何気ないように言った。
「ちょっと前なんだけど……天文部の男の子にね、告白されたんだ」
「へぇ」
「それで『好きな人がいるから』って言って断ったんだけど、その、発言力の強い子だったから居づらくなっちゃってね。空を見てるだけなら一人でもできるか、と思って辞めちゃった」
「そうか、それは仕方ないね」
 よくありそうな話だし、彼女の気苦労もなんとなくわかった。でもそれより僕が引っかかったのはそこではなかった。
「好きな人、ね」
「……うん」
 そう言いながら思わず目を合わせてしまい、同時に目を逸らした。どうして目を逸らしたのかはわからなかった。いや、多分、わかっていたけど考えることを避けようとしていたんだと思う。多分三日月さんもそうだと信じた。
 僕は話を逸らそうとして、止まっていた足を動かしながら全然違う話を振った。
「それで、これからどこへ行こうか?」
「んー……黒崎君と一緒ならどこでもいいよ」
 僕についてくるようにして早足で歩き始めた三日月さんがそういうのを聞いて、二秒くらいのラグがあって心臓が跳躍するのを感じた。自分でも否定できないくらい動揺した。
「冗談だよ、なんで真顔になるの」
「……いや、別に何の意図も無いんだけど」
 どうやら僕は真顔になっていたらしい。感情が漏れにくい表情をしているから人が寄り付かないんだと西野さんに嫌味を言われたが、どうやら今回は感謝するべきみたいだ。
 ふと三日月さんの顔を見ると、顔がかなり赤くなっている。彼女はどうやら感情が漏れやすい表情をした人みたいだ。
「どうして自分で言った冗談で恥ずかしがってるの?」
「う、うるさいなぁ! もう!」
 そう言って彼女はますます顔を赤くしながらそっぽを向いた。僕が小さく息を漏らしながら目線を逸らすと、突然左手に暖かい感覚を覚えた。
 三日月さんの右手だった。顔は背けたままで手だけ伸ばしている。
 僕は指を開いて彼女の手を迎え入れた。
 二人で黙って体温を共有するようにして指を絡めた。
 そうして僕らは初めて手を繋いだ。



 三日月さんと一緒に過ごした一日目とは対照的に、文化祭二日目は一人で静かに過ごしていた。
 流石に二日目の午後ともなると遊び疲れた人がいるのか、図書館が混雑していた。過ごしにくいなと思ったので、僕は屋上で一人で本を読んでいた。流石に立ち入り禁止の場所だけあって、僕以外の人は居ない。グラウンドからは何をやっているのかわからないけど人の声がざわざわと聞こえているが、静かで、隔離された空間の様だった。
 僕は本を持ってきてはいたが、開ける気にならなかった。何もしたくなかった。胸を締め付けるような感覚が体から出ていかない。僕はひたすら自分の左手だけを見つめて、昨日の記憶を反芻していた。
 誰かと手を繋いだのは生まれて初めてだったと思う。僕は親の愛情を殆ど受けずに育った。母親や父親と手を繋いだことは、幼い頃にあったのかもしれないが、記憶が無い。
 つまるところ、僕は人に好意を向けられるのに慣れていないと思う。だからこんなに落ち着かないんだと思う。西野さんのは好意とはちょっと違う……彼女が僕に向ける感情は、恐らく戦意といった方が正しいような気がする。僕だってそうだ。お互いに欲望を満たすためだけの関係で、感情があったとしても、それは動物的な衝動に近い。
 同時に人に好意を向けるのにも慣れていない。こんなにも誰かにずっと触れていたいと思ったことは無かった。僕はまた自分の左手を見つめた。力仕事なんて生まれてこの方殆どしてないので、指は細く、血が通っていないかのように白い。我ながら男っぽくないとおもう手だ。
 だけど、そこに彼女の体温が残っているような気がした。そう思うと胸を締め付けられるような感覚が加速していった。
「今日はこっちだったんだね」
 声がしたので驚いて顔をあげると、西野さんが立っていた。少しも着崩されずに身に付けられた制服が、彼女の学校での真面目さを物語っている。
「……どうしてここが?」
「どうせ図書館にいるだろうと思って行ってみたらいなかったし、図書館に人が多かったから人がいない所に行ったんだろうなと考えて……それで今一番人のいなさそうなところといったらここしかないでしょ?」
 西野さんはすらすらと理由を答えた。僕の思考の流れを復唱したかのような完璧な理由だった。僕が苦笑いしていると、彼女は「隣に座っていい?」と聞いたので、僕は黙って頷いて話を続けた。
「学校では話しかけないんじゃなかったの?」
「いーや、今日は特別。どうせ誰もいない所だし」
「壁に耳あり……」
「屋上だから壁も障子も無いよ。それに、なんとでも言い訳できるしね」
 僕が言いかけたのを彼女はバッサリと切り捨てた。確かに、普段は関係がばれない様にと細心の注意を払っているが、神経質になりすぎる必要もないと言えば無い。僕は少し息を吐いた。彼女はゆっくりとした動作で僕の隣に腰かけた。
「ここ、黒崎君と初めて会った場所だね」
「そうだね」
「覚えてる?」
「まぁ、そこまで昔のことじゃないからね。まあまあ覚えてるよ」
 あの日、僕が良い天気だったので屋上で本を読んでいると、西野さんが現れた。何の話をしたかははっきりとは覚えていなかったが、彼女が前の彼氏と別れてしまったとかそういう話だったと思う。
「そういえば、話は変わるけど……文化祭、楽しんでる?」
「そこそこね。いくつかは出し物を見たよ」
 僕がそう答えると彼女は静かに首を傾けた。ふわりとした焦げ茶色の髪が空気の中で揺れている。
「黒崎君のことだからまたずっと本ばっか読んでるんだろうかと思ってたけど」
「……僕だってたまには体を動かすよ」
 三日月さんに誘われて無理やり動いたことは黙っておいた。前に、僕が三日月さんと図書室で話していたのを良く思っていない節があったからだ。黙っておいた方が得をするような気がした。
「西野さんは? やっぱり忙しい?」
「まあね。次々と問題が起きるからその対応に追われてる。この二日間で休憩とったのは今が初めてだよ」
「それはご苦労様だね、委員長さん」
 流石に文化委員長ともなれば文化祭はとんでもなく忙しいみたいだ。年中ぼんやりと暮らしている僕には想像もできない世界だな、とぼんやりと思った。
 そうぼんやりとしていると彼女が突然口を開いた。
「今日はあの子いないんだね……三日月さんだっけ」
 動揺して僕は息が止まりそうになった。見られていたようだ。彼女とは結局一日中いっしょにいて、二人で学校の外にご飯を食べに行き、二人で吹奏楽部の演奏を聴き、最後は歩き疲れて二人で図書館の中で話していた。
「ああ、うん。今日は友達と回るんだって」
「ふうん。昨日は黒崎君と一緒だったのに?」
「昨日はたまたま僕と回ってただけで、僕と違って一緒に回る友達は多いみたいだよ。うらやましい限りだね」
 僕がそう答えると、彼女は微笑んだまま頷いた。だけど僕はよく知っている。この笑顔は作り笑顔だ。目は笑っているが、雰囲気が笑っていない。
「黒崎君もその友達の一人なの?」
「うん、まあね」
「ふうん……手、繋ぐくらいには仲良いみたいだね」
 今度は本当に息が止まってしまった。どうやら手を繋いでいた時も見られてたみたいだ。。慌てて呼吸を整えるようにして、聞こえないように小さく息を吐き出した。迂闊だった。誰かに見られてもおかしくなかった。
「あ、黒崎君、動揺したでしょ」
「まあ、うん」
「黒崎君の表情が崩れたの久しぶりに見たよ」
 そう言って心底楽しそうに西野さんは僕を見つめた。なんとなく、僕は彼女は怒っているような気がした。気のせいかもしれないけれど、なんとなく、だ。
「まぁ、私には関係ないことだけどね。黒崎君の交友関係なんて」
「あのさ」
「何?」
「何か、怒ってる?」
 そう聞くと、今度は彼女が動揺した表情を一瞬だけ見せた。どうやら本当だったみたいだ。差がすぐに元の微笑に戻して、彼女は何食わぬ顔で会話を続けた。
「……どうして?」
「いや、なんとなくだよ。特に理由は無い」
「まぁ委員会で色々ストレス溜めこんでるからね。怒ってるように見えたとしたら多分それだよ」
「そう」
「それでね」
 彼女は僕に顔を近づけた。キスしてしまいそうなほどの距離になり、僕は反射的に目をつぶってしまった。彼女は耳元で囁き、湿った吐息が耳にかかる。
「……今夜、いい?」
「……いいよ」
 僕が小さく頷くと、彼女は黙って屋上から去って行った。一人残された僕は目を閉じたまま、屋上のフェンスにもたれ掛って全身の力を抜いた。
 風が気持ち良かった。



 鍋にはビーフシチューがコトコトと音を立てている。あともう少し弱火で煮込めば完成だ。その鍋を見ながらサラダを作る。レタスとクルトン、ブロックベーコンを刻んだものをボウルの中に放りこみ、生クリームやバルサミコ酢などを混ぜたドレッシングをかけて和える。出来上がったサラダを冷蔵庫に入れ、僕はビーフシチューの鍋を混ぜ返した。香ばしいようないい匂いが鼻をくすぐる。
 何かしていないと落ち着かなくて、僕はひたすら料理をしていた。手を動かしている方が気持ちは落ち着いたし考えもすっきりしてきた。
 僕は明らかに三日月さんに好意を持っていると思う。それが恋と呼べる質のものなのかはとにかく、僕は彼女と過ごすことを心地よく感じていると思う。そして三日月さんも恐らく僕に好意を向けてくれているんじゃないかと思う。これは半分以上願望だ。もちろん彼女の好意なんて僕には窺い知ることなどできない。しかし、もしそうだと仮定すれば、僕と彼女の関係は変質せざるを得ない。それに、僕はどこかでそうなることを望んでいるような気がした。そしてそうなったとすれば一つ問題になってきそうなことがある。
 つまるところ、僕は西野さんに話さなければならないことがあった。
 インターホンのチャイムが鳴る。玄関まで行って鍵を開けると、ゆっくりと扉が開いた。
「……やぁ」
 僕は声をかけたが、彼女は無言で靴を脱ぎながら僕に抱きついた。焦げ茶色の髪からシャンプーの香りが漂うが、顔は胸にうずめられて見えない。体重をかけて押されたため、僕は彼女を抱きかかえるようにして後ろ向きに転倒した。体の痛みをこらえながら、口を無理やりこじ開けるようにして声を出した。
「……どうしたの?」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
 彼女は何事も無かったかのように作り笑いを浮かべた。そして、僕の頭を両手で抱え、夢中になって僕にキスをした。ゆっくりと口の中を這いずり回る彼女の舌が少し震えているように感じた。僕はなんでもいいので話をするきっかけを作ろうとした。
「ご飯、先に食べない?」
「……いらない」
「お風呂、入らない?」
「そうだね……一緒に入る?」
「それでいいよ」



 高校生の一人暮らしにしては僕の部屋は広すぎるのだが、風呂場も一人暮らしには広すぎる大きさだ。体を洗う場所も広いし、二人で湯船に浸かっても足をまげて座れば余裕で入れる。まず、服を脱いだ途端抱き着いて離れなくなった西野さんをなだめるようにして、二回ほどやった。僕は兎に角心を殺すのに必死だった。胸が張り裂けそうだったが、その話をするためには彼女を落ち着かせる必要があった。
 それから二人で向かい合うようにして浴槽に浸かった。僕はお湯に肩まで浸かり、息をゆっくりと吐き出した。体中の関節に閉じ込められた疲労感が溶け出すような気持だった。
「お風呂でしたのは初めてだよね」
「そうだ……ね」
 西野さんが呟いたので、僕は声を絞り出すようにして返事をした。僕は薄い灰色のタイル張りの壁にもたれかかり、左腕で目を隠すようにして抑えた。冷たい壁が背中を刺すように冷やす一方で、お湯で温まった腕が眼球に熱を放射している。西野さんは水の中で息を吐き出し、ブクブクと泡を立てていた。
「黒崎君は、おっぱい好き?」
「……いきなりだね」
 僕は姿勢を変えないまま言った。突然そんな質問されても困る。僕はあまり考えずに言葉を返した。
「好きでも嫌いでもないし……あるも無いもそこまで気にしてないよ」
「へぇ、男の子ってみんな大きいのが好きなもんじゃないの?」
「ある方が良いとされてるだけで僕にとってはあんまり関係ないことだよ」
 そう答えると、ふぅんと言いながら西野さんが僕に近づいてきた。足と足の間に入り込み、僕の上に覆いかぶさるようにして抱き着いた。彼女の胸が密着するようにして僕に迫ってきた。
「私のってさ、大きい方だよね」
「多分ね」
 彼女は僕の首筋を舐めるようにキスをした。僕が抱き寄せるようにして背中に触れると、彼女は右手を僕の股の間に差し込んだ。濡れた髪が僕の顔をくすぐり、滑らかな肌が僕の体の上を滑った。もう一回しろ、とでも言いたいのだろうか。
 話を切り出すタイミングが無い。僕は困り果てていた。
「黒崎君のも大きい方だよね」
「当たり前だけど人と比べるタイミングが無いからわからないよ」
「谷山君のよりはずっと大きいよ」
 そう言ってそれの先を弄る彼女を見ながら、僕は少しだけ驚いた。
「彼氏と、もうしたの?」
「いや、しては無いんだけど……断った代わりに、抜いてあげた」
「……断った?」
 疑問の声をあげると、彼女は少しだけ頭をあげて僕の顔を上目遣いで見た。濡れた髪の毛が顔にかかっているのを僕が払ってあげていう間、試すように僕を見つめた後、彼女は話を続けた。
「したい、って言われたんだけど、生理ってことにして断った」
「……なんで?」
「修学旅行で疲れてて、気分じゃなかったんだ。それに、誰か入ってくるようなリスキーな状況でそんなことしても楽しくないじゃん」
 そうさらりと言って彼女は笑ったが、僕は笑わなかった。
 彼女は嘘をついているように見えた。疲れていたのは本当かもしれないけど、これまでの彼女を見ていると、彼女はリスキーなことを楽しむような節がある。そして、もし本当に疲れていたとしたら、あんな遅くまで起きているはずがない。なにより、するのが好きな彼女のことなら、彼氏からの誘いを断る筈がない。
 それから僕はあの日彼女から深夜にかかってきた電話を思い出していた。
 思考実験。
 夫以外の男と一夜だけ夜を過ごそうとした女性の話。
 背徳感と信頼の話。
 断った彼女。
 そして僕。
 ――全てが一本の糸のように繋がった。
 黙って彼女を強く抱き寄せた。彼女は身を委ねるようにして僕に寄り掛かった。柔らかい肌が体に触れているのは心地よかった。
「あのね、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「……何?」
 彼女は怪訝そうな声を出したが、顔を見たくなかったので彼女の肩に顎を当てたまま話した。柔らかい曲線を帯びた背中をいくつもの水滴が滴っていた。
「僕は気持ちいからやってる。君も気持ちいからやってる」
「うん」
「それが僕と君の関係だよね」
「……うん」
 少しだけ腕の中で彼女が身じろぎするのを感じた。
「それ以外に感情は無い?」
「そうだよ。そういう約束だよね。感情は差しはさま……」
「本当に?」
 彼女がゆっくりと動かしていた右手を止めた。それから両腕を僕の首に回し、しっかりと抱き着いた。絶対に離さないとでも言わんばかりに、強く。
「……何が言いたいの?」
「なんとなくわかってるんじゃない?」
 彼女の声が震えている。こんなにも彼女の感情をはっきりと感じたことは無かった。彼女は怯えているように見えた。いや、はっきりと言える。怯えている。
「……やめるの?」
「提案だよ。二人ともこのままじゃいられないでしょ? 君にも彼氏がいる。僕のせいで君が遠慮するようなことになっちゃいけない」
「それに、あの三日月さんって子の為に?」
「そうだね」
 僕は嘘をつかなかった。それは逆にさらなる動揺を誘ったようで、彼女は黙り込んでしまった。そこで僕は賭けに出た。
「でも一方的に止めるのは良くないから、君の心の整理がついてからでいいよ」
「私に止めるかどうか決めて、ってこと?」
「そうだね」
「自分勝手だね」
「僕は最初からそういう人間だって知ってたでしょ?」
 彼女は僕をもっと強く抱きしめた。ほんの少しだけ肩が震えているような気がした。僕も強く抱きしめて、濡れた手で彼女の濡れた髪を撫でた。お湯の塊が手に連れ添うようにして跳ね上がった。
 僕は彼女が否定できないような何らかの感情を僕に抱いているのだと直感していた。もし、彼女が僕に対する感情を否定できるのなら、続けることになるだろう。もし彼女がその感情を否定できなければ、ルール違反で止める口実になるだろう。僕は彼女が感情を否定できない方に賭けたのだ。
 ほんとは僕も気づいていた。三日月さんともっと仲良くなるために西野さんを切り捨てなくても良いことを。西野さんとの関係を隠しながら、三日月さんともっと仲良くなってもいいのかもしれない、と。
 だけど、完璧に隠し通せたとしても、信頼には傷がつく。信頼は相互関係の中に成り立つものだ。僕は三日月さんとの間に信頼が欲しかった。そして、西野さんには言ったけど、背徳感を見てみぬ振りするほどの度胸は無かった。
「……今は」
 声を震わせながら、彼女は答えた。
「今は、決められない」
「そりゃそうか……じゃ期限をつけようか。そうだね。次の『呼び出し』までに決められたら」
 彼女は黙って頷き、顔を上げた。キスをせがむように目を閉じて顔を傾けたので、僕は彼女に唇を重ねた。



 彼女は泣いているようだった。

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