TOPに戻る
次のページ

第5話:彼の魅力と彼女の恋慕

▽12/09/11更新分から読む ▽12/09/16更新分から読む ▽12/09/22更新分から読む


 夢を、見てしまった。
 叶うはずもない夢を。
 望んではならない夢を。



 夏休みが終わり、九月の半ば。
 残暑という言葉は上手い言葉だと思う。まさに夏の置き土産のように暑さが留まっている。熱気は体を焼くように地上をうねっている。
「あっつい! 京都って涼しいんじゃなかったの? 底冷えとかなんとか言ってさ!」
「それは冬だよ」
 暑さに文句をつける祥子に冷静に指摘する。けれど確かに暑い。もしかすると熱いと書いた方がいいくらい暑い。私は首筋を伝う汗を右手の甲で拭った。
 私たちは修学旅行に来ていた。最近の高校生は修学旅行に海外に行くのが多いと聞いていたが、私たちはそんな時流を無視するかのごとく京都に来ていた。二泊三日、スケジュールは条件付きで自由行動。あまりにも杜撰な計画だけど、自由行動なのは私たちにとってはありがたい。ただし、その条件というのが少し面倒だ。
「『三日間の自由行動の内、どこでもいいので寺社仏閣を訪れ、その写真を撮り、修学旅行が終わった後でその写真を添えて訪れた場所についてのレポートを書くこと、千字』、だって。めんどうだけど、どうする?」
 修学旅行のしおりを読み上げながら、瀬川さんと祥子に声をかける。写真、という条件が無ければ正直ネットで検索すれば一瞬で終わる課題だ。すると意外なところから積極的な意見が出てきた。
「いいよ、私寺とか好きだし」
「おお、出た、綾ちゃんの歴女キャラ!」
「歴女ってほどじゃないよ。ニワカだよ」
 瀬川さんはすこし恥ずかしそうに弁解した。意外な趣味だな、と思った。でも歴女って要するにニワカ歴史マニアの女の子のことだと思っていたんだけど違うのかな。
「ここから一番近いのは?」
「このホテルから一番近くてちょっと有名なのは……本能寺だね。まぁホテルの名前にもなってるから、いろんな人がそこへ行って課題を済まそうとするだろうけど」
「本能寺ってアレだよね! あの源信長が自殺したところ!」
「織田信長だよ……あんた、よく高校受かったよね」
 祥子の知識レベルの低さに少し顔を引きつらせる瀬川さん。祥子はずっと大体そんな感じだから別に気にしなくてもいいと思う。テスト前は一夜漬けで平均点くらいはとっているので一応器用な子なのかもしれない。
「ま、この辺りは豊臣秀吉が寺を集めた町だったから、歩けばお寺がいっぱいあるよ。本能寺もその一つだし、本能寺の変が起きた時の位置とは違うんだ」
「ほぇー、わからん!」
 いや今の話はわかるでしょ。
 私は微妙にテンションのかみ合っていない二人の会話を押し切るようにして提案した。
「じゃあ適当に歩いてみる? 商店街とかもあるみたいだし」
 そうしてしばらく歩いてみると、京都の町は思っていたより都会だということが分かった。
 まず驚いたのが本当に「碁盤の目」だということ。東西に走る道と南北に走る道が直角に交じり合っている。また古い建物と新しい建物が交じり合っていて、少し歩いているだけで、家や店、古い町屋や寺社仏閣が次々と現れる。
 結局、課題に関しては寺町通りや新京極通り近辺の寺の写真を数枚撮り、豊臣秀吉の都市政策について簡単なレポートを書くことになった。スマートフォンで検索しながら、新京極通りから少し逸れた場所にある寺を訪れては写真を撮っていた。
 本当にたくさんの寺があるんだなと思った。自称ニワカ歴史マニアの瀬川さんは嬉々として写真を撮っていたが、祥子に至っては何をすればいいのかまだ分かっていないようだった。まぁ祥子なら写真さえあればなんとかすると思う。私は祥子を放っておいて自分用の写真をそそくさと撮っていた。
 新京極商店街はうちの学校の生徒やほかの学校の生徒も含め、修学旅行生が多かった。かわいい服の店や、趣味の悪い男物の服の店、いかがわしい土産物の店や、楽器屋や映画館、ゲームセンターもあった。私たちはそれを眺めたり、気になった店に少し入って見たり、スーパーの中で売っていたクレープを食べたりしながら町を歩いた。
 私はとかく写真をたくさん撮っていた。商店街そのものの様子や、変なお店、道をうろついている人の様子や、椅子に腰かけて話す人の様子。自分たちの写真も少しはとったが、そういう風景の写真をたくさん撮っていた。
「陽菜、写真いっぱいとってるね。何に使うの?」
「土産話にしようと思って、ね」
 祥子に聞かれたので笑いながらそう返事した。家族や、黒崎君に京都の話をしようと思った。黒崎君なら何でも知ってるから意味のない情報かもしれないけど、とにかく話そうと思っていた。
 その後錦通り商店街へと足を進めた。魚と糠漬けの臭気の漂う、少し古めかしい商店街だったが、観光客や地元の人や私たちのような修学旅行生が入り混じっていて、京都らしさを感じる商店街だった。
「京の台所、っていうらしいね。有名な料亭とかはここで仕入れているとか」
「へぇ。天下の台所みたいな感じ?」
「多分ね」
 漬物の試食をしながら瀬川さんと話す。大根の漬物だけでも色々あるみたいだ。色とりどりの漬物を眺めているのは面白かった。
 祥子は豆腐ドーナッツなるものを一人で買って幸せそうに頬張っている。その顔を写真に収めていると、祥子はドーナッツを飲み込み、うれしそうに声を出した。
「この商店街、いいなぁ。京都に来たぜ!って感じするね」
「私もそう思ってた」
 商店街のアーケードを見上げながら私はつぶやいた。ここには活気が漂っている。いや、漂うというよりは、エネルギーが澱んでいるといった方が正しいかもしれない。熱を持ちながら、停滞するエネルギー。
 私は柄にもなく楽しんでいたと思う。京都という初めての環境を素直に楽しんでいた。デジタルカメラの写真データがメモリを埋め尽くすにしたがって、気持ちが満たされているような、そんな気さえした。そのメールが来るまでは。
「陽菜、携帯なってるよ」
「ああ、うん。メールだ」
 ポケットが振動と共に電子音を発している。誰からだろうと思ってあけると、それは谷山君からだった。

 From:谷山 聡
 件名:Re:
 本文:
  今どこにいるの?
  一緒に回ろう



 谷山君は四条大橋の手前にいるというので、祥子と瀬川さんと別れ、私がそこまで行くことになった。普通男の方が来るもんじゃないかと思ったが一人で歩きながら気持ちを整理したかったので私から行くといった。
 錦通り商店街から南に一本向こうの通りが四条通りだ。京都のメインストリートの一つらしい。私はよく知らないけれど、ガイドにはそう書いてあったし、何より通りを歩く人の多さがそれをはっきりと物語っていた。人を掻き分けるようにして私は一人でゆっくりと歩いた。
 夏休み、私は谷山君と何度かデートに行った。水族館、遊園地など色んな場所に行ったけど、初めて行ったデートと何も変わらなかった。手も繋いだし、何度かキスもした。だけど、何も変わらないように感じてしまった。そのことが、私に、ある大きなことを気づかせることになった。
 私は彼のことが全く好きではなかった。
 好きでないのであって嫌いなわけではない。ただ、興味が全く湧いてこないのだ。誰かが愛の反対は無関心と言っていたのを思い出したけど、あれは本当に的を射ている。何も感じないし、何か感じたいとも思えない。
 そしてそれに呼応するようにして、私はある思いに取り憑かれていた。どす黒い感情。人を傷つけるだけではなく、自分すらもズタズタにしてしまいそうな感情だ。
 でもこのことは、例え心の中であっても、言葉にしなかった。というか、してはいけないと思っていた。つまり、それを言葉にしたいという感情と、してはならないという感情が渦巻いて、私はずっと潰れそうになっていた。
 私は大きな交差点を渡り終えたところでふと立ち止まり、四条河原町の交差点の人ごみを写真に収めた。写真の中には名前も知らないたくさんの人々が映っている。自分の撮った写真には自分の姿は映らないということが変な気分になってくる。この人ごみの中にいる自分は、違う人から見れば、同じように有象無象の一部に見えるんだろう。
「陽菜」
「ああ、谷山君」
 ずっと考えに耽っていて前から彼が来たことに気づいていなかった。笑顔を貼り付けた谷山君が目の前に立っていた。私はうっすらと作り笑いを浮かべた。
「ごめんね、遅くなって」
「いいよ。俺もそんなに待ってなかったから」
 制服の裾を少し引っ張りながら彼は答えた。その割にこちらまで歩いてきたということは、多分結構な時間待っていたんだろう。「行こうか」とつぶやき、谷山君と歩きながら話を続けた。
「今まで何してたの?」
「友達と錦通り商店街にいたの」
「ふぅん。瀬川さんとか?」
「そうだよ」
 そう聞くのは、自分以外の男友達と回ってたんじゃないかと疑っているからだと思う。しばらく谷山君と過ごしているとわかるのだが、彼は独占欲が強い。私が一人で過ごしていても、誰かと過ごしていたんじゃないかと疑う。束縛するのはいい。私を好いてくれている気持ちはよくわかるからだ。
 いずれにせよ問題なのは、私が彼を好きではないということだった。
「錦通り商店街ってどんなところ?」
「糠漬けと生臭い匂いのするところ」
「面白いのか?」
「まぁまぁ……ね」
 私は作り笑いを続けながら返事を返した。そっとさりげなく出された彼の左手に、私は右手を重ねた。いつ握っても体温を感じない手だ。
「どこへ行くの?」
「八坂神社、って所だよ。あとその奥にある円山公園」
「有名なの?」
「祇園祭のところ」
 なるほど、と頷いた。
 鴨川を超え、四条通をどんどんと東側へと進んだ。思ったより近くに山の稜線が見える。途中でスタバに寄って飲み物を買ったり、辻利に並んでいる長蛇の列が何を目当てにしているのか考えたりしながら二人で歩いた。
 八坂神社の大きな門を超えて境内に入っても、人がたくさんいて神社の中、という感じはしなかった。谷山君がまだ課題の写真を撮っていないというので、写真を撮る谷山君を私は遠くから見ていた。気怠そうな仕草でデジタルカメラを持ち上げる彼は、普通の高校生男子、という感じがした。
 私はため息をついた、その時だった。
「あいた……」
 ため息と同時に口から突然意図せずして言葉が出た。無意識だった。つぶやくほど小さな声だったが、自分でも自分の声帯から音が出たことに驚いたくらいだった。
 私は口を押さえた。なんで、なぜ、どうして……。
 なぜ、誰に「会いたい」のかはわからないが、何か漏らしてはならないものを漏らしてしまったような感覚だった。冷や汗がにじみ出て来て、体が少し震える。とんでもないミスを犯した気分だ。
「陽菜、どうかした? 気分でも悪いのか?」
「いや、なんでもないよ。ほんとに」
 そう言って私は作った笑顔を顔に貼り付けようとした。でも上手く顔が作れなかった。
「ほんとに大丈夫か?」
「う、うん。平気平気、ちょっと歩き疲れただけだから」
 そういいつつも、自分でもわかるくらい動揺が隠せなかった。言葉に出さないようにしていたそれが漏れ出てきた。私は焦りしか感じていなかった。でもそんな細かい内心の葛藤までは流石に伝わらない。谷山君は優しく私に声をかけた。
「じゃあ、向こうまで行って、少し座ろうか」
「……そうだね」
 私は素直に彼の言葉に従った。今ほど彼のことをありがたいと思ったことは無かった。
 円山公園は、公園というよりは庭園と言った方が近い、きれいな場所だった。やはりここも観光客が多かったが、人気の少ない木の下に置かれたベンチに私たちは腰かけた。谷山君が買ってきてくれたお茶を一口飲みながら肩の力を抜くと、草の湿った匂いが鼻をつんとくすぐった。
「大丈夫?」
「もう大丈夫。ちょっとだけ目眩がしただけだよ」
「暑いからな。熱中症とかかもしれないな」
 そう言って形式じみた心配を向けられる。私はお茶をまた一口飲んだ。冷えた液体が頭の冷静さを取り戻してくれると信じたが、一度ゆさぶりをかけられた精神を抑え込むのは難しかった。モヤモヤとした感情が私ごと揺さぶるように大きくうごめいた。
「陽菜ってさ……」
「何?」
「いや、なんでもない」
 谷山君は無表情のまま視線を逸らした。その表情に何か引っかかるものを感じて私は切りかえした。
「どうかしたの?」
「いや、あのさ……自分のこと、一途だと思う?」
「私が?」
 突然話し出すにはおかしな質問だ。私は、うーんとうなって考えるふりをしながら、額の汗をポケットから取り出したハンカチで拭った。
 自分が一途かどうか。移り気は無いのでどちらかと言えば一途な方だと思う。自分で認めるのも恥ずかしいが、まだ前の彼氏のことを引きずっている部分がある。谷山君には愛情は向けていないが、やはり一途だと思う。
 だけど問題はそこではない。彼がどうしてこの質問をしたのかということだ。何かを遠回しに聞こうとしているような感じだ。私は少し焦るような気持ちを感じた。
「自分で言うのもなんだけど、一途な方だと思うよ。なんでそんなこと聞くの?」
「いや、なんとなく」
 やはり谷山君は目を逸らした。彼は何かを疑っている、と直感的に思った。
 私は椅子に置かれた谷山君の手にそっと自分の手を重ねた。
 そしてこちらを向いた谷山君の唇に自分の唇を近づけた。



 修学旅行の夜と言えば夜更かしして恋バナと相場が決まっている、らしい。私がそう考えているわけではなく、そう言い残してルームメイトの祥子や瀬川さんたちはどこかへ消え去った。私は疲れてしまって体調が悪いという言い訳をして、というか本当に気分が悪かったので、先に布団に入っていた。でも生まれてこの方ずっとベッドで寝ているせいか、畳の上に布団を敷いて寝るのは思ったよりも寝づらかった。私は一度寝ようと努力したが寝付くことができず、すぐに体を起こしてしまった。一度寝るといった手前、違う部屋に遊びに行くこともできなかったので、眠くなるかもしれないと思って今日買った本を開いてみることにした。
 円山公園を出た後、私は谷山君と共にバスに乗って一乗寺という場所にある恵文社という本屋さんへと向かった。京都に行く前から行きたいと思っていた場所だ。そこは普通の本屋さんではなく……どう説明すればいいのかわからないけど、本のセレクトショップみたいなところで、凝った照明やインテリアと共に、手に取りたくなるような本や雑貨が所せましと並んでいた。
 退屈そうにしている谷山君を少しだけ無視して、私は本を漁った。普段本なんか読まない私でも、少し変わった本が所狭しと並べられた本屋の中は眺めているだけで、柄にもなくワクワクしてしまった。そこで私は二冊の本を買った。一冊は自分のために外国の景色がたくさん載った写真集。もう一つは黒崎君のために買った。中身はよくわからないけど黒崎君っぽい感じの本がたくさんあったが、「私を食べてと豚に言われたら」という原題が気に入ったからこれを買うことにした。買ってから持ってるかもしれないと気が付いたが、まあいいかと思った。
 谷山君は本を買っている私を見て、「読書家なんだね」と笑った。私は実はね、と言って誤魔化してこれがお土産だとは言わなかった。怪しまれるのを警戒してラッピングもして貰わずに、カバーだけかけて貰った。
 自分用に買った写真集をひととおり眺めた後、黒崎君に買った本を少しだけ開いてみることにした。百個の思考実験とその解説のようなものが連なっている。はじめに、から読んでみたが、私はこのようなタイプの本を読まないので書いてあることはチンプンカンプンだった。ページをめくりながら途中に施された子供の落書きのようなデザインのイラストを眺めていた。
 ふと「誰も傷つかない」という文字が気になって、目に留まったページの思考実験を読んでみた。既婚の女性が有名俳優に迫られたら、という話だった。その女性は「誰も傷つかないから」という理由で俳優と共に夜を過ごそうとしている。解説には、誰も傷つかなかったとしても、信頼が傷つくとしたら、ということが書かれていた。
 馬鹿馬鹿しい話だと思ったが、ふと、黒崎君が言っていたことを思い出した。
「僕の気持ちは僕以外の誰にもわからないのに……それを誰かがわかったような気になって思いやるなんて偽善以外の何物でもない」
 見えない信頼を守ることは偽善だろうか。目の前にある快楽に溺れることが正しいことなのだろうか。どちらにしろ正しいとか正しくないとかはどうでもいいことのように思えてきた。うん。頭がこんがらがってきた。
「陽菜」
 声がかかったので振り向くと、何故か部屋の入口に谷山君が立っていた。
「どうしたの?」
「いや、暇だったから」
 谷山君は何も臆することなく部屋の中に入ってきた。一応、ここ、女子の部屋なんだけど。
「私はいいけど……一応、女子の部屋だよ、ここ」
「ばれなきゃいいんじゃない?」
 変なところで勇敢なので困る。私はふっと笑って布団を体にかけ直した。部屋の中は電気が消えていたが、窓から差し込む街の光が明るくて、照明がついているみたいだった。
「何してたの?」
「みんなほかの部屋に遊びに行ったんだけど、体調が悪くて寝ようと思ったけど寝付けなかったから、眠くなるように本読んでた」
「……真面目だね、羽目をはずせばいいのに」
「あはは、そうかもね」
 正直に今の状態を伝えたのに真面目と言われた。確かにみんなはしゃいでいるのに一人で本を読んでいるのは根暗と言われても仕方がない。
「陽菜、楽しいか?」
「修学旅行が? 楽しいよ。めったにこれない場所だからね」
「そうか。俺は一回家族と来たことがあったけど……小さかったし覚えてないな」
「そういうもんだよね。私も色んな所に行ったような気がするけど全然覚えてないや」
 隣に座った谷山君がじりじりと近づいてくるのが分かった。私は彼がどんな目的で来たのか察して、心の中で苦笑いしてしまった。覚悟はしていたし、むしろ谷山君がどういう風にその目的まで私を運ぶかが気になったので、成り行きを見守ることにした。
「俺と会うまでは、どこへ行ったんだ?」
「……とりあえず、この辺りを回ろうってことになって、新京極商店街とか寺町商店街のあたりをぶらぶらした後、会った時言ってた錦通り商店街へ行ってた」
「へぇ、商店街ばっかりじゃん」
「色んな店があって面白かったよ。土産物屋とか、楽器屋とか、中古CD屋とか、それこそ色々」
 谷山君は黙って私の腰に手をまわした。体の表面から彼の体温が伝わってくるのが分かった。なるほど、確認を取らずに押し倒すのか。なかなかに賢いなと思った。でもこれも多分先輩に聞いたとかいういつものパターンだろう。
 黒崎君と初めてした時はどうだったっけ。覚えてない。確か二人とも未経験で勝手がわからなかったので黙ったままやたらと前戯をした気がする。結果的には多分正解だった。
「谷山君は?」
「俺? 友達と、河原町通り?って言うのか? あの大通りをフラフラした後、なにもねーってなって、スタバで駄弁ってた」
「もっと色んなところ行けばいいのに……っと」
 そこで文字通り押し倒された。急だったなと思う。私ならもう少し話して場の空気を盛り上げてから倒したと思う。値踏みしてても仕方ないけれど。
 私は彼に身をゆだねた。唇を重ねる。舌が入ってくる。いや、入ってくるというよりは押し込まれると言った方が正しいかもしれない。唇と唇の間から乱暴に押し込まれたそれは暴れまわるように私の口の中を動いた。正直に言うと何も感じない。谷山君は多分童貞だと悟った。
 手が寝間着代わりに来ていたTシャツの下に伸びていく。寝る時私は下に何もつけないので直に手で触れられる。手をつなぐときと同じように彼の手は冷たい。氷の手が胸の上を這うような感覚で、背筋がぞっと凍るのが分かった。不器用に揉まれ、強く弄られる。やっぱり何も感じない。黒崎君ならもっと優しくするし、キスするだけで感じるのに。

 ふと、さっき読んだ本のフレーズがよみがえった。
「誰も傷つかないなら」許されるのか。

 多分、この不毛な前戯が続いたとしても、最後までしてしまえば流石に感じるだろうし、私は快楽を得る。谷山君も快楽を得るだろう。そして黒崎君にはこのことは伝わらない。というかそもそも黒崎君とは感情を挟まない関係だし、お互い誰と何をしようが関係ないし、信頼は……。
 信頼は。
「あのね、谷山君」
「……何?」
 口から急に言葉が出ていた。
 どうして自分でも言葉が出たのかわからなかった。混乱して言葉が止まりそうになったが、あとは勢いで話した。
「本当に申し訳ないんだけど……今日は、最後までできないと思う」
「……」
 彼がここにきて初めて意表を突かれた顔をした。多分ここまで許されたのだから最後まで行けると踏んでいたんだろう。私は申し訳なさそうに見える顔を作って話を続けた。
「体調が悪くて、って言ってたでしょ? ……あれ、ほんとは生理なの」
「え……」
「だからごめんね。最後までは、できない」
 そう言って私は谷山君を抱き寄せた。包み込むように体を合わせ、体温を共有する、唇を合わせ、舌を滑り込ませ、滑らかに動かす。歯茎を、口蓋を、唇を、舐める。谷山君が腕の中で少し震えるのを感じた。谷山君が腕の中で呟いた。
「陽菜」
「何?」
「俺のこと、好きか?」
「うん、大好きだよ」
 嘘を堂々と吐き捨てる。笑顔で、そっとつぶやくように、でもはっきりした声で。谷山君は少し顔を赤くして、恥ずかしそうに返事をした。
「俺も……好きだよ」
「ごめんね。最後までできなくて」
「うん、俺も悪かった。何も言わなくて……」
「でも、きちんと、その……するから」
 私はうっすらと微笑んだまま、硬くなったそれに手を伸ばした。



 真夜中の京都の町は、深夜二時半を回ったというのに、まだ人の気配がしていた。
 私は散歩に出ていた。一度寝て、ふと目が覚めたのだ。祥子は私の隣で寝ていたが、瀬川さんと他のルームメイトは部屋に出ていた。この時間になってもいないということは違う部屋で寝ているのだろう。そして違う部屋で寝ていて帰ってこないということは、教師の巡回がザルであることを意味している。私は好奇心と冒険心に任せて上着だけ羽織って夜の街に出てみた。
 流石に夜の繁華街は怖い。少しだけ歩いて戻るつもりだったが、夜の鴨川は少し風があって気持ちよかったので、自販機で飲み物を買って川岸に腰を下ろした。大学生風の人が数人たむろしているのが見えた。
 炭酸が喉を通ると、舌の根に残ったさっきの感触が消えていくような気がした。結局私は谷山君を手と口で遊んで終わらせた。怪しまれないように少し不自然にやったつもりだったが、「初めて?」と聞かれたので「うん」頷いておいた。生理というのはもちろん嘘だ。ただ単に疲れていただけだ。
 欠伸をしながら手持無沙汰に携帯を弄る。どうして断ってしまったのかはわからなかった。いや、わかりたくなかった。そして今携帯を弄りながらアドレス帳を開き、その人に電話をかけてしまったのも理由がわからないし、わかりたくもなかった。
『もしもし』
「寝てた?」
『うん。こんな遅くにどうかしたの? 何か緊急のことでも?』
 彼は思ったよりすぐに電話に出てきた。眠そうな彼の声が返ってくる。ほっとするような気持と、体がうずうずするような気持が重なった。でもかけた理由を考えてなかったことに気づき、焦ったが遅かった。私は正直に答えた。
『何もない』
「……何もない真夜中は電話に適さないよ」
『そうだね、ごめんなさい』
「でも、珍しいね」
「何が?」
 私が問いかけると、彼が大きな欠伸をしている音が聞こえた。今更ながら理由もなく夜中に電話してしまったことを恥じた。
『西野さんが、その……遊びじゃない用で連絡してくるって』
「そうだね。なんとなくいい夜だったから、誰かに電話でもかけたくなって」
『文学的だね』
 誤魔化すには少し苦しすぎるような理由を付けたが、満足そうな彼の声が返ってきた。欠伸しながらも私に言葉を返してくれる彼は、多分笑っていたと思う。
「黒崎君は今日何をしてたの?」
『まぁ、図書館に行って、その……喫茶店に行って、かえって借りてきた本を読んでた」
「いつも通りだね」
『そう、だね……京都はどう? 涼しい?』
「昼間は暑かったよ。でも今は涼しい。ホテルから抜け出して一人で鴨川沿いにいるんだけどね」
『悪い子になったね、委員長』
 楽しそうに彼が笑ったので私も笑った。彼との関係の本来の目的外の接触なのに、滞りなく嫌がることもなくスムーズに話してくれている。ふと思いついて、あのことを聞いてみることにした。
「あ、そうそう。一つだけ聞きたいことがあって」
『何?』
「思考実験なんだけどね」
『ハハハッ』
 彼が本気で笑っている。含み笑いとか、愛想笑いとかではなく、本当に面白かった時の笑い方だ。私は珍しい音を聞いた時の驚きと、今の話に笑う要素が無かったことによる少しの苛立ちで、話を切ってしまった。
「何が面白いの?」
『いや、いいんちょ……西野さんの口から出ると思ってない言葉だったから』
「私だってたまには難しいことを考えるよ」
『笑ってごめんね。続けて』
 思い出せる限りでかいつまんで説明する。
「本で読んだ実験なんだけどね、既婚の女性がずっと昔からファンだったイケメンの有名俳優にたまたま出会って、迫られている」
『うん』
「女性は、自分の夫を裏切ることになると思ったけど、そのことを漏らさなければ誰も傷つかないからという理由でその俳優と共に夜を過ごそうとしている。これは正しいのか?」
『一回聞いただけでわかるけど、多分正解は無いよ』
「それはわかってる。ただ、どう考えるかなと思って」
『ふむ』
 彼はどう答えを出すだろうか。私は馬鹿らしい疑問だと思った。でも実際の場面に接した時、私は夜を過ごさない、というか中途半端に過ごすという選択をした。
「どう?」
『そうだね。もしその女性が俳優と夜を過ごせば、快楽を得て、女性は男性に対する信頼を傷つけることになる。もしその女性が俳優と夜を過ごさなければ、男性に対する信頼を守ることができるが、得られなかった欲に対して後悔する』
「でも、夫に言わなければばれないし、信頼も傷つかないよ?」
 彼はそこで少し息を吸った。
『確かにそうだけど、その女性自身の後味はどうなると思う? 多分背徳感を消しきれないと思うんだ』
「そう……だね」
『なら自分の夫に対する気持ちを裏切っていることになる。信頼ってのは両方の気持ちがあって成り立つものだと僕は思うんだけど、そうだとすると結果的に信頼ってのは崩れるね』
「信頼が両方必要だっていうのは」
『片方だけだとただの忠誠か狂信だよ』
 ちょっと疑問に思ったけど理屈はなんとなくわかる。私はあえて突っ込まなかった。
『だから僕ならこう考える。自分の背徳感を忘れられて欲への後悔が我慢できないなら、夜を共に過ごす。背徳感を持たずに欲への後悔を受け入れられるなら、過ごさない。自分本位でしょ?』
「そう、だね。で、もしあなた自身がその女の人なら」
『僕なら……僕は、背徳感を捨てることができないよ』
 彼は少し自嘲するように、小さく呟いた。
 でも、私にはそれで十分だった。
 私はその言葉が欲しかった。
「……ありがとう、真夜中にごめんね」
『いいよ。西野さんとこんな話ができると思ってなかったし。ちょっと目が冴えたから本読んでから寝るよ』
「ありがとう、じゃあね」
 手の中にあるふっと切れた電話を見つめながら私は思った。例え心の中であっても言葉にしてはいけなかった感情を、私は言葉にしようとしていた。
 私がしてしまった行動と同じように、そして私が心のどこかで彼に臨んだ通り、彼は夜を過ごさない方を選んだ。それは彼が、人が傷つくところを見て自分が傷つきたくないからなんだけど、結果として彼は人が傷つくのを望まない。それは優しさというのではないだろうか。
 そしてその優しさを、私は欲しくて欲しくて仕方が無かった。私が無理に言い寄ってもオトモダチになることを許し、私が何度も無理に家に行って体を重ねても許し、こんな真夜中に電話をかけて意味不明な話を滔々としても笑う彼の優しさが。
 私はホテルに戻ろうと思って立ち上がった。その間際に小さく、さらりと呟いた。
 私は、好きなんだ。
 いや。
 大好きなんだ、黒崎君が。


次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system