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第4話:彼の感心と彼女の慢心

▽12/08/27更新分から読む ▽12/08/30更新分から読む


 考えればだいたいの物事は推測できるという慢心があった。
 だからずっと目を閉じて暮らしていたような気がする。
 そして目を開けるまで気づかなかったんだ。
 目の前は果てしない青だった。



 肩から胴、胴から足へと流れ落ちる水。
 排水溝へと吸い込まれていく水を僕は延々と見つめていた。
 今頃彼女は僕のベッドの上で寝息を立てているだろう。シャワーから上がったら西野さんを起こさなくてはならない。僕はそれまでに体の汚れ、いや、どちらかというと穢れ、を流し落そうとしていた。泡立ったスポンジで自分の体を擦りながら、僕は物思いに耽っていた。
 おかしい。
 ルールからいえばおかしいことではない。
 だが、おかしいと言えばおかしい。
 夏休みに入ってからというもの、「呼び出し」の回数があからさまに増えている。具体的に数字を集めて計算したわけではないが、平均して週に四回くらいのペースになっている。その理由が全く分からないのだ。彼女の様子を見ていると、単純に暇だからやりたいというわけでもなさそうだ。
 ところで、決まって、というわけでもないが、彼女は大体イライラしているときに僕のところに来る傾向がある。もちろん全部が全部というわけではない。あくまで傾向の話だ。これまでの例で行くと、テスト明けとか、友達関係で苛立つことがあった時、委員会で腹が立つことがあった時、彼氏と何かあった時などだ。はけ口として利用しているのだろうか。僕らはもともと単純に欲を満たすために繋がったので、彼女がそれにどんな目的を付加しようが、僕に迷惑がかからなければそれはそれでいい。
 シャワーを浴び終えてジャージを穿いて浴室から出てくると、冷房がかかってうっすらと冷えた部屋の空気が僕の肌を刺した。ベッドの上では、一糸まとわぬ姿の彼女が座ったままこちらをとろんとした目で見ていた。
「……何か着なよ」
「上裸の黒崎君に言われても」
「シャワー浴びてきたところだから」
 そう言って僕はTシャツを取り出して袖を通した。Tシャツから洗剤の匂いがふわっとたち、鼻をくすぐった。
「何か飲む?」
「いらない」
 僕が問いかけると、彼女は気の抜けた炭酸のような声で返事をした。僕は冷蔵庫から冷えたお茶を出してコップに注いだ。琥珀色の液体が透明のコップを埋めた。
 ベッドに腰掛けて、一口お茶を飲んだ。風呂上がりだったのでのどが渇いていたから、冷たいお茶が消化管に染みこむように感じた。
「やっぱり頂戴」
「飲みかけだよ?」
「いい」
 そう言って西野さんは僕の持っていたコップを奪い、それを喉に流し込んでいた。まだ服を着ていないので、視界に入らないように僕は目をそらした。それに気づかれたのか、彼女は意地悪な声で話しかけてきた。
「何で恥ずかしがってるの? ずっと見てるくせに」
「何度見ても慣れないもんだよ」
「あは、男の子だね」
 そういうと彼女は唇を僕に寄せてきた。避けられないと思ったのでじっとしていると、唇の間から液体が侵入してくるのが分かった。吐き出すわけにもいかないので飲み込むと、さっき飲み込んだのとは同じ液体と思えないくらい、気持ちが悪くなるような生温さを感じた。
「ね、もっかいしよーよ」
「……できれば僕の体力とか考えてくれない?」
「やーだ」
 ベッドに押し倒され、体をぐいぐいと押し付けられる。Tシャツ一枚を通して彼女の体温が、柔らかさが、しっかりと伝わってくる。
「ほーら、ちゃんとたってるんだから、ゴムつけて」
「あのね」
 すっと彼女の顔に手を伸ばし、両手で顔を両側から押してつかむ。しっかりと目を覗き込み、できるだけ嘘を見抜こうとする。彼女は嘘をつくのがとても上手だ。殆どミスしない。でも、無駄だとわかっていても、わずかな兆候を読み取る努力はしてみる。
「最近、頻繁にするよね」
「……そうかな?」
 彼女の瞳は殆ど揺れない。黒目には目を細めた僕が移っている。僕は質問を続けた。
「昨日も、一昨日もしたよね」
「うん」
「どうかしたの?」
 僕は彼女をじっと見つめた。彼女は小さく口を開いた。
「理由は特にないよ。暇だから。それに……」
「それに?」
「ルール通り、感情は『無い』の。ただ、したいだけ。」
「……そう」
 鼓膜を破らずに何かが突き抜けたような、痛みに満たない痛みの感覚が僕の耳の奥を貫いた。そうこうしている間にも彼女は再び僕に唇を寄せ、舌をねじ込もうとしてくる。何か獲物を食べようとする動物のようだ。
 しかし僕は見逃していなかった。
 嘘がずば抜けて上手な彼女が、一瞬だけミスをしたのだ。
 暇だから、といった時、少しだけ瞳が動いたのを僕は見逃さなかった。



 次の日。
 今の僕の姿を形容するとすれば、控えめに言っても、干からびた植物、というのが最も正しい表現だと思う。結局昨日の晩は合計四回させられた。きっと僕が頻繁に来る理由を問い詰めてしまったことに腹を立てたのだろう。僕は肉体に残る疲労感に抗うようにして足を引きずって歩いていた。
 しかし、僕の体力を奪っていたのはそれだけではない。流石に八月の初めともなれば、暑さで一歩進むごとに体力がごっそりと削られていく。町中に暖房をかけているのかというくらいの暑さに思わずため息が止まらない。風が無いわけではないが、風というよりは熱風といった方が正しい。頬を焼くようにして空気の塊が通り過ぎていく。
 そこまでして僕が外に出たかった理由は、市立図書館に行くことだった。図書館なら本がたくさんある上に冷房も程よく効いている。家にある読み飽きた本を読んでいるよりはよっぽど建設的だし、電気代の節約になる。
 児童書に群がる暇を持て余した小学生を横目でちらりと見て、こんな平日にソファに腰かけて何故か雑誌を読んでいる中年男性を視界から外し、僕は図書館の奥へと歩みを進めた。図書館の奥の方にある人気のない一角が僕のお気に入りの場所だった。哲学とかそんな感じの堅苦しいの本が置いてあるコーナーだ。
 自分で言うのもなんだけどこんな堅苦しい本を日常的に読んでいる人は少ない。だからこの一角に寄ってくる人はほとんどいない。僕は最近途中まで読みかけていた本を本棚から掴み、近くにあった椅子に腰かけた。最近まで某国立大の総長をしていた人とフリーライターの対談集だ。サクサク読めるので、体力的に疲れている時でも読める本だ。
 本を開いて数分すると、僕はうとうとし始めた。本を読み進めようとしても瞼が言うことを聞いてくれない。何度も同じページを読んでしまう。流石にこんな日まで本を読みに来ることは無かったかもしれない。家で寝ていればよかった。しかし僕にとって本を読むことは習慣化してしまっていて、いつも読んでないと不安になるのだ。ある種の病気と言えば病気と言えるかもしれない。
 徐々に夢か現実か区別がつかなくなってきた。本のページがクロスディゾルブで消え、学校の教室が現れる。昼休みだ。
『黒崎君、ご飯は?』
 隣から声がかかる。三日月さんが僕の隣の席に腰かけている。僕は読んでいた本のページに目を落とした。これは夢の中なのだろうか。それにしては妙にリアルな質感を持って本のページが現れている。僕は適当に返事をした。
『食べないよ。面倒だから』
『だめだよ体に悪いよ』
 昔の人は一日二食だったとどこかで読んだことがある。それに僕は同年代の中ではずば抜けてカロリー消費の少ない生活をしているだろうから、一食抜いたほうが逆に体にいいのではないかと思う。そう話してみたが、彼女は納得しなかった。
『だめだよー。食べてくれなきゃお母さん寂しいよー』
『いつから僕の母親になったんだい?』
『黒崎君を心配する気持ちは母親並みだよ』
 正直なところ僕の母親より僕を心配している気がする。僕の両親は放任主義という概念を人の形にして服を着せたような人間だ。下手すれば僕のことを疎んでさえいそうだ。これまで僕とは全くコミュニケーションをとってこなかったし、自立できるほどの年になれば金だけ与えて家を追い出してしまった。非常識を飛び越えて異常だ、と我ながら思う。
『僕のことはほっといてくれていいよ。大した価値もないから』
『そんなことないよ。面白いし』
 僕のどこに面白い要素があるのか教えてほしい。六月くらいだったかに彼女に勉強を教えてからというもの、僕は三日月さんにしきりと付きまとわれている。
『ねぇ黒崎君』
 全く意味が分からない。もしかすると彼女は下心でもあるのかもしれないとまで考えてしまう。自信過剰かもしれないが、そうでもしないと説明がつかない。
「黒崎君」
 三日月さんが僕を呼ぶが、僕は答えない。西野さんといい、三日月さんといい、何故僕なんかに注目したのか。正直言って不可解だ。ずっと目立たないように過ごすことを生業としてきたような僕を――。
「黒崎君!」
 目が覚めた。どうやら本当に寝ていたらしい。首の後ろ辺りが痛む。続きを読もうとページに目を落とすと、突然視界が奪われた。
「だーれだ?」
「……図書館では静かにしなよ」
「周りに人がいないからいいんじゃないかな?」
 どう考えてもこの声は三日月さんだ。キーが高い。僕の額の少し上あたりの空中で声の音の波が踊るように揺れている。
「何の本読んでたの?」
「面白い本だよ」
「どんな風に?」
「気軽に読める」
 眠気が覚めない上に視界が閉ざされているので、なんとなく適当な対応になってしまう。それは彼女も気づいたようで、
「……疲れてる?」
「ちょっとね」
 僕の視界を妨げていた両手を外し、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。顔が近い。少し顔をひきつらせながら身を引いた。
 彼女が一歩身を引くと全体が見えた。白いワンピース。涼しそうだな、と思った。
「三日月さんは、どうしてここに?」
「うん? 本借りて帰ろうかなと思いつつ! 借りようとして借り忘れてた本を思い出し図書館の中を徘徊し! お目当てのコーナーが見えたなぁと思いきや! 黒崎君が見えたのでちょっと悪戯しようと試み今に至る!」
「詳細な説明ありがとう」
 勢いをつけている割にちょっと滑ってるのはスルーした。でもこんな堅苦しい本しか無いコーナーに、何の本を借りに来たんだろう。気になったが聞くほどのことでもなかったので黙っていた。
「それで黒崎君、この後予定は?」
「無いよ。家帰って寝るだけかな」
「え、宿題とかは?」
「もう終わった」
 夏休みなんて友達もいなければ部活にも所属してない僕にとっては、延々と自由時間が続くだけだ。だから夏休みの前半は、誇張も何もなく本当に何もすることが無かったので、ひたすら夏休みに課された宿題を始末していた。
「いいなぁ……まだ半分くらい残ってるよ」
「早くやっちゃうといいよ。気が楽だからね」
 といっても、僕に限っては早くやったところで宿題以外何もすることが無いので逆にソンかもしれないけど。
「でね、黒崎君、もしよかったら……」
「何?」
「む、こんな感じじゃダメだな。ちょっと待って」
 そういうと三日月さんは後ろを向いて何やらぶつぶつ言い始めた。「もうちょっとチャラく」とか「アグレッシブかつダイナミック」とか聞こえてくる。正直言って変な人にしか見えない。他人のふりがしたい。
「HEYカレシ! ワタシとお茶しない?!」
「……何が言いたいの?」
「もー、やだな、言わせないでよぉ」
 クネクネする三日月さん。テンション高いな。素でひいている僕に気づいているかどうか知らないが、彼女は少し目を細め、うっすらとした笑いを僕に向けた。
「ちょっと、デートしようよ」



 デートと言っても買い物に行ったり手をつないだりということではなく、近くの喫茶店に誘われただけだった。図書館に行った帰りに必ず利用しているらしい。入り口のあたりは暗いが、奥に大きな窓がついているおかげか、店の奥は明るくなっていた。壁の隅には五弦のコントラバスが置かれ、スローテンポのジャズが流れている。
 僕が和紙のような紙に手書きで書かれたメニューを眺めていると、向かいの席に腰かけた彼女が口を開いた。
「あんまり高くないでしょ? それにモンブランがおいしいんだ」
 そういってニコニコしている三日月さんに、「へぇ」と僕は相槌を返した。メニューに目を落とし、オーダーをとりに来た店員さんにアイスコーヒーを頼んだ。彼女はモンブランと紅茶を頼んでいた。
「暑い時にクーラーの効いた部屋で熱いものを飲む……なんか間違ってる気がするよね」
「この文明ならではの贅沢だよ」
「間違いないね」
 そう言って紅茶を啜りながら彼女は笑う。僕はアイスコーヒーの入ったコップを傾けた。コップを通して入ってきた太陽の光がテーブルの上に屈折した光と影を落としていた。
「喫茶店が好きなの?」
「そういうわけじゃないんだけど、たまたま一回入ってみて気に入ったからよく来てるの」
 年季の入った丸テーブルに残った煙草の焦げ跡をなぞる。高校生が入るには少しオシャレな店だなと思った。高校生くらいなら背伸びしたってスターバックスが関の山だろう。
「黒崎君、昨日何してたの?」
「どうして?」
「さっき疲れてるって言ってたから」
「ああ、あれね……ちょっと本読んでて夜更かししてね」
 まさか本当のことは言えまい。
「なるほど。図書館で寝るなんて黒崎君らしくないよね」
「僕だって眠い時は居眠りくらいするよ」
 確かに本に集中してる時は眠たくならないから、読書しながら寝ることは少ない。しかし今日は集中する以前の問題だった。
「そういえば僕も気になってたんだけど」
「うん? なになに?」
「何の本を探してたの?」
「いや、大した本じゃないよ。見る?」
 そういって三日月さんがトートバッグから出したのは、つい最近見たことがある本だった。
「幸福について……」
「ほら、黒崎君、この前読んでたでしょ? だから私も読んでみようと思って」
 確かに最近読んでた。だがそういう問題ではない。今を時めく女子高校生が読むような本とはあまりにかけ離れすぎている。
「僕が言うのもなんだけど……こんな本難しいとか、読むのめんどくさいとか思わない?」
「ほんとに黒崎君が言うのもなんだけどだね……いや、慣れてるから大丈夫だよ」
 そして笑いながら、黒崎君ほどじゃないとおもうけどね、と彼女は付け足した。
「よく読むの?」
「まぁまぁ」
 正直に言うと驚いた。どちらかというと賑やかな人だし、僕なんかに構わなくてもいいくらい沢山友達がいるし、静かに黙って読書するようなタイプの人には見えなかった。
 友達の多い人は本を読まない。これは僕の偏見だ。僕が本を友達の代わりにしている部分があるから、こんな考え方をしてしまう。こんなくだらない偏見に縛られて彼女を見ていたんだ。
「これってどんな話なの?」
「え? ああ、これ?」
 三日月さんの声で、現実に引き戻された。少し考え込んで静止していたらしい。三日月さんはこちらをじーっと見ていたようだった。
「どんな話って聞かれても、こんな話って一言でもまとめきれないし、僕の解釈があってるとは限らないよ」
 と予防線を張ってから話し始める。というか一冊をとても真剣に読み込んだわけではないので本当に正しくないと思う。
「えーと……人間の幸福なあり方、人間の生き方全体にとって主要なものというのは、人間自身の内におきるもの。ここにこそ内心の快不快が直接宿っている」
 言葉を選びながら頭の中に残っている内容を吐き出す。少しでも違う言葉を使ってしまうと、別の意味になることがあるからだ。三日月さんは楽しそうにモンブランをフォークで切っている。
「で、内心の快不快は、人間が感じたり欲したり欲したり欲したり欲したり考えたりする働きの結果。これに反して外部にあるいっさいのものは、何といっても間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない」
「それで?」
「人間の幸福は、人間の個性、つまりその人のあり方によるものが大きい。なのに人間は、自分が持ってるものとか、人の印象の与え方ばかり気にするんだ、って言いたいんじゃないかな」
 一息ついてアイスコーヒーを煽った。三日月さんは首をかしげながら目線を下に落としている。うまく説明できた気がしないな……僕は普段インプットしかしていない人間だから、こんな風にアウトプットするのが苦手だ。
「よくわかんないけど、黒崎君はどう思ったの?」
「まぁ、ショーペンハウアーは高尚な芸術とかなんとかみたいな話をしてて、ちょっとエリート主義っぽいところは否めないんだけど、ある程度は言えてると思う。快不快が内的なものだとすれば、外部の者は全て間接的なもので、じゃあどうすれば内側にあるものを触れるのかわからないけど……」
「私は」
 僕が続けようとした言葉を遮るようにして三日月さんが声を出した。アイスコーヒーのコップの中に入った氷が解けて回転した。カランコロンと音を立てる。
「今の聞いた限りだけど、それって寂しいと思う」
「へ?」
 普段を考えるとあり得ないほどにはっきりした声で否定した彼女を見て、僕は面食らってしまった。そしてかなり強めの語気で話し始めた。
「幸福がその人一人だけのものなんて、ちょっと傲慢だよ。内的なものだけなんて考えられない。意味ってのはいろんな人やものとのつながりの中でできていくんだよ」
「つながり、ってのは」
「つながりがダメなら関係、でもいいと思う。単一の何かでは構成されないもの。なんて言ったらいいんだろう……とにかく、その人一人の内側だけで構成されるものには思えないの」
 前にせり出すようにして話す三日月さん。
 のけぞるようにして顎を引いた僕。
 少しの沈黙が訪れる。
「……ごめん」
「あぁ、うん」
 意味もなく三日月さんが謝る。体を元の位置に戻し、すこし恥ずかしそうに俯いた。
「まぁでも実際に読んでみないとわかんないよ。僕の読み取った限りだからね」
「それもそうだね……読んでみるよ、きちんと」
 顔を赤くして俯いたまま、呟くように三日月さんは言った。人があまりいない、話声よりBGMの方がはっきりと聞こえる店の中で、こんな声でこんな話をするのは少し良くなかった。店主がチラチラとこちらを見ているのを目の端で捉えながら、僕は話を続けた。
「それにしても、君がこういう話をするのって、なんか意外だな」
「そうでしょ。自覚してる」
「恥ずかしいことではないと思うよ」
 僕は一度言葉を切った。残っていたアイスコーヒーを飲み干す。少し緊張して乾いたのどに刻み付けるようにして流れ込んでいく。
「こういう話がしたくて、図書館から僕を連れ出したの?」
「ちょっと違うな」
 頬を染めた彼女が、顔をあげて少し微笑みながら言う。
「そもそも黒崎君に話しかけた理由が、それだよ」



 彼女曰く。
 父親が大学の文学部の教員をやっているため、小さいころから本に囲まれて生活してきた。中学くらいから家にある本を読み始め、考えても意味が無いようなことを考えるのが好きになった。さらにそもそもお喋り好きなため、議論がしたくてしかたなかったが、周りの友達に「議論」してくれる人はいない。そんなことをすれば浮いてしまう。
 隣の席になって、僕が読んでいる本をこっそり盗み見て、僕なら話せると思ったらしい。勉強を教えてもらうという口実で話しかけ、積極的に話しかけてある程度親しくなってから、いろんな本について話そうと考えたらしい。これまでの不可解な彼女の行動にもこれで説明がついた。下心という意味では僕の推測はあたっていたが、少し意味の違う下心だった。
 そんな回りくどいことしなくても普通に話したのに、と僕が言うと、彼女は笑い声を漏らしながらこういった。
「そこは微妙な乙女心、ってやつだよ」
 よくわからないがそういうことらしい。そもそも三日月さんは男子と気軽に話しているようなタイプの子ではない。男子の中でも特に話しかけ辛い雰囲気の僕に話しかけるのに色々と策を練った気持ちはよくわかる。
 彼女と喫茶店で別れた後、僕はそんなことを考えながら買い物をしていた。
「新製品のクリームチーズパン、いかがですか?」
 と声をかけられ、僕は思考を一時中断した。売り子のおばさんが小さなかごに入れて配っているパンの切れ端を渡されるがままに食べた。口の中に粘っこいチーズ味が拡がった。あまり上品ではない味だな、と思った。
 売り子のおばさんを振り切ってスーパーの外に出ると、日が傾いたのか、町中が薄い黄色に染まっていた。夕暮れが近い。僕は家へと足を進めながら考えも進めた。
 正直に言うと僕は驚いていた。自分の周りに僕のように非生産的な本を読み非生産的な脳内の議論に明け暮れている人がいると思わなかった。内心、どこかで、哲学書などを読んでる奴なんて僕のようにどこかが歪んでる人間なんじゃないかな、という気持ちもあった。
 だからこそ底抜けに明るい三日月さんがそんな議論を吹っかけてきた時、あり得ないものを見たような気がしたのだ。色んな人に対して失礼なことを言っているような気がするが、本当にそうなのだから仕方がない。
「僕が言うのもなんだけど」
 変わった人もいるもんだな、と一人で呟いた。
 多分、この時僕は笑っていたと思う。
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