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第2話:彼の日常と彼女の衝動

▽12/07/12更新分から読む ▽12/07/18更新分から読む


 梅雨の季節に訪れる晴れ間は、拍子抜けするほど美しく晴れる。
 まるで昨日の日の雨など無かったかのように、美しい青空が見える。
 けれど、天気予報を見る度にがっかりする。次の日はまた雨だから。



 全校集会ほど効率の悪いものは無いと思う。
 特に湿度が高いこのような時期にこんな密室に全校生徒を集めるというのは感心できない。プリントにでもまとめた方が、時間的コストを最小化できるのではないかと思う。
 周りの人も同じように考えているのか分からないが、真剣に先生や生徒会役員の話を聞いている人は殆どおらず、俯いているか私語をしているかという感じだった。それに対して教員も止めることもせず、ただただじめじめとした陰鬱な時間が蠢いていた。
『えー、続きまして、文化委員長から』
 マイクを通した気だるそうな声が体育館に拡散する。僕がぼんやりと壇上を見ていると、彼女が無駄のない軽やかな足取りでステージの上を歩いているのが見えた。
『こんにちは、文化委員長の西野陽菜です。今日は、十月に行われる文化祭と、夏期休業中の準備に関する諸注意を行いたいと思います。まず――』
 どうしてこの時期に十月の文化祭の諸注意を行うのだろうか。毎年この時期らしいが、理由は良くわからない。考えるのを諦めると、湿り気を帯びた空気の中に疑問が塵となって消えていく。
 暖かい焦げ茶色の髪をふわりと揺らしながら真面目な顔つきで話す彼女は、本当に真面目そうに見えた。一度聞いたことがあるのだが、あの髪は地毛らしい。「良く染めてるのって言われるけどね」と苦笑混じりに彼女は話していた。
 隣の名前も知らない男子がこそこそと話している内容が聞こえてきた。別に聞きたいと思ったわけではないが至近距離だったので聞こえてきた。
「あの委員長ほんとかわいいよなぁ」
「ほんとほんと。真面目そうだしなぁ」
 確かに、彼女の外見は優れていると言っても良いと思う。その上学校では真面目で快活な女の子に見えているのだろう。僕だってよく知らない時はそうだと思っていた。だから男女問わず人望も厚く人気があるんだろうと思う。
「でもああいうタイプに限って付き合ってみたら性格悪かったりしてな」
「おいっ、やめろよ」
「いやいや、清楚そうに見えて実はエロいとか……」
「それは逆にプラスじゃね?」
下世話な話だ。でも、僕は彼らの話を聞いて少しおかしいような、悲しいような、不思議な気持ちになった。――半分くらいあたっている。
 端的に言うと、彼女と僕の関係は、「セフレ」だ。
 あの日、公園で彼女が示した条件はこうだ。お互いにやりたくなった時に自由にメールで「呼び出し」をする。ただし、学校では関わり合わず、この関係のことは絶対に誰にもバラさない。勿論僕は断ろうとしたが、彼女の不気味な勢いに押し切られた。それに、僕にだって彼女の体に興味が無かったと言えば嘘になる。
 平均して週に一回、多い時は二、三回ほど「呼び出し」される。誓って言うが、僕から呼び出したことは一度もない。場所は、僕が一人暮らしということもあって僕の家が多いが、数回はホテルに行ったこともある。
『というわけで、一緒に文化祭を盛り上げましょう。ありがとうございました』
 ゆっくりとしなやかな動作で彼女が頭を下げると、湿りきった体育館の空気に乾いた拍手の音がパラパラと鳴り響いた。舞台からの去り際に、一瞬彼女が僕の方を見た様な気がしたが、自意識過剰だろうか。僕は頭の後を掻きむしった。
 彼女が舞台を去って少ししてから、携帯のバイブレーションが腰の辺りをくすぐった。どうせファーストフード店のメールマガジンか何かだろうと思ったので、後で見ようと思ったが、嫌な予感がしたので周りに見えないようにしながらこっそりと携帯を開けた。

 From:西野 陽菜
 件名:
 本文:
  今日の夜、黒崎君の家、大丈夫?

 すっと血の気がひくのを感じた。良い予感なんて一度も当たったこと無いのに、悪い予感はいつも当たる。壇上であれだけ真面目に話しておいて、すぐにこんなメールを送れるものなのだろうか。恐ろしい。
 僕は音を立てないように携帯を閉じ、制服のポケットに滑り込ませた。携帯の重みでズボンが少し引っ張られたのと同時に、胃の底の辺りがずしんと重くなるのを感じた。



 教室での僕は静物に近い。
 全く誰とも話さないし、いつも黙って本を読んでいるか授業を受けているかどちらかだ。休み時間はご飯を食べずに教室を出て本を読みふける。人間と言うよりは机か椅子の一部といった方が良い。そして普通の精神状況で壁や机に向かって話しかける人がいないように、僕に向かって話しかけるような奇妙な人は殆どいない。
 周囲の人は、連絡など必要な時は話しかけてくれるし、話しかけてくれた人には出来るだけ丁寧に返事をするようにはしている。でも、自分から必要なく話しかけることは絶対にしない。それは単純な臆病心でもあるし、他人に迷惑をかけたくないというラディカルな親切心でもある。
「では、今から暫く時間を差し上げますので、小テストの見直しをして下さい」
 数学の教師が鼻に掛かるような不快な声と口調で声を掛けると、クラスは一気に私語の波を吐き出した。あまり勉強の出来る高校ではないので、授業中の生徒の態度は基本的に悪い。それを教師が咎めようともしないのも原因ではあると思うが、無駄だと分かっていてエネルギーを保存するために黙っているならそれはそれでラディカルで良いと思う。
 僕は数学の教科書と帰ってきた小テストを見比べながら、退屈を紛らわせていた。九十五点。式を展開するときに係数を取り違えるという、我ながらくだらない計算ミスをしてしまった。
 赤いボールペンで解答用紙に正しい計算式を並べながら、欠伸をした。湿気に満ちた空気が肺の中に入り込み、気持ちの憂鬱さを増幅させた。
「あ、そうだ……」
 そう言えば、集会の最中に西野さんから来たメールに返信するのを忘れていた。僕はまたこっそり携帯を出してメールを返信した。

 From:黒崎 悠人
 件名:Re:
 本文:
  大丈夫

 そしてまたそっと音を立てないように携帯を閉じ、ポケットにそっと入れた。今日の夜、のことに関して出来るだけ意識を向けないようにする。
 そしてまた教科書に目を落とす。まだ習っていない範囲を先に読み、練習問題を頭の中で解く。授業でその範囲をもう一度繰り返すことで記憶に刻みつける。家で勉強したくないので授業中に全て覚えてしまおうと思って始めたやり方だが、代わり映えのない単純作業のような勉強の仕方だ。退屈さが加速する。
「あの、黒崎君?」
 突然隣から声が聞こえたので、ゆっくりと振り向くと、隣の席に座っている女の子がこちらに身を乗り出して来ていた。
 なんだろう。僕に話しかけると言うことは何かの連絡だろうか。
「あのさ、ここ、なんで間違ってるかわかんなくって……」
 そう言って彼女は自分の答案を僕の方に向け、綺麗なV字型でバツがつけられている問題を指さした。与えられた式を展開する問題だが、項が多くて少し工夫しないと計算ミスしやすそうな問題だ。
「僕に聞くより、先生に聞いた方がわかりやすいと思うよ」
「でも……なんかあの先生、説明の仕方っていうか、話し方って言うか……」
 言葉を濁すようにその子は言った。
 言わんとせんことは何となくわかる。鼻に掛かるような声で「そんなこともわからないのか」と言わんばかりに説明する様子は確かに少し不快感がある。可哀想な話だが、生徒に信頼されていないのは言うまでもない。
「ああ、なんとなくわかるよ」
「だから頭良さそうな黒崎君に聞こうと思って……」
「そんなことないよ」
「今、ちらっと見えちゃったんだけど、黒崎君クラス最高点じゃない?」
 あの先生はテスト返却の際に最高点と最低点と平均点だけ発表するのだ。僕は少し恥ずかしくなって、声を小さくしながら返事をした。
「まあ、今回だけは……点数は、そうみたいだね」
「じゃ、教えてくれる?」
 期待するような目で見つめられても困る。
 僕は改めてその子の答案を見てみた。その子の名前も覚えていなかったので名前欄をちらっとみると「三日月美月」と丁寧な字で書かれていた。点数を見ると七十一点だから成績の悪い方では無いと思う。
「あ、あんまりジロジロ見ない方が嬉しいな……」
「いや、考えてただけだよ」
 乾いた声で嘘を放つ。
 まさか名前を覚えてなかったから確認したとは言えなかった。
「あ、ほら、この項、足し算間違えてるよ」
「あ……ほんとだ……」
「それに、ほら、この式ってエックスの三乗と2エックスの二乗を先にラージエーかなんかでまとめて展開した方が計算が楽だよね?」
「あ……ああ……」
 声がどんどん明るくなっていくのを聞いて相手が理解しているのが分かる。
「他の問題は? 大丈夫?」
「うん、ありがと、黒崎君」
 そう言ってあどけない顔で笑う彼女を見て、僕は満足して前を向いた。こういう風に話しかけられるのも珍しいので、何となく良い気分になったのだ。乾ききった喉に水を流し込んだような、そんな気持ちだった。
 それでも相変わらずクラスは私語の波の中にあった。



 放課後は、よっぽどの用事が無い限りは、いつも図書館に行く。
 学校の図書館は広くて、自習や読書のために用意された机や椅子まである。でも放課後まで図書館に残って読書するような暇な生徒はあまりいないので、その机や椅子はいつもガラ空きだ。だからいつも僕は日当たりの良い窓際の席に座って本を読んでいる。
 昨日少しだけ読みかけていた本をつかみ、いつもの席に向かった。だが、いつもの席に近付いて行ったとき、イレギュラーな事態が発生しているのに気がついた。
 いつも僕が座っている席に西野陽菜が座っていた。
 英単語帳を開き、眠たそうな目をノートに落としながらペンを走らせている。その動作は滑らかで、優雅で、彼女を知らない人ならば惚れてしまうような雰囲気だった。
 僕がどうしようかと手持ちぶさたに立っていると、彼女は僕に気づいたのか、うっすらと微笑んだ。僕も気づかれないくらいうっすらと笑ったが、それ以上にコミュニケーションは無い。学校では無関係を装う。これが僕らのルールだった。
 余計な気遣いをしなくて良いように、本棚をまたいで隣に設置されている自習スペースへと足を進める。大人しそうな男の子が一人勉強しているだけで、他には誰もいない。僕はほっと一息つくと、窓に近い席に座った。
 どんよりとした空が地上を睨み付ける様に空を蠢いている。また一雨きそうだ。早いうちに帰った方がいいかもしれないが、今日はできればゆっくり帰りたかった。
 僕は本に目を落とした。集中が深くなるにつれ、周りの音が聞こえなくなり、ふわりと浮かぶような感覚と共に活字の渦の中に体が飲み込まれていく。本を読む時のこの感覚が好きだ。
「あ、黒崎君!」
 急に名前を呼ばれてびっくりした僕は、本を取り落としそうになった。
「黒崎君も勉強?」
 隣を見るとさっき授業中に僕に話しかけて来た女の子が僕に笑顔を向けていた。
 教室では座っていたからたいして気にかからなかったが、こうやって立ち姿を見てみると小学生のように小さい。
 とりあえず声が大きいので、僕は目を細めて口の前に人差し指をあてた。
「あ、ごめんなさい……」
「僕は本を読みに来ただけだよ」
 そう小声で言って持っていた文庫本を見せると、彼女は満足そうに頷いて僕の隣の席に座った。どうして僕の隣の席に座ったのだろうかとふと思ったが、考えても分からないことなのですぐ考えるのを止めた。
「私は自習。あと二週間でテストだからね」
「へえ、偉いね……えーっと、三日月さん、だったよね」
「うん、覚えててくれたんだ」
 彼女は顔をほころばせた。僕はすこし眩しいものを見た様な気がして目を逸らした。
 身長もそうだが、低い目鼻立ちや大きな目も、彼女を幼く見せていた。髪型は耳かけボブカットで、顔立ちの幼さをより強調しているように見えた。
 僕は本を閉じ、椅子から立ち上がった。
「じゃ、勉強の邪魔しちゃ悪いから、僕は帰るよ」
「え、帰るの。分からないところあるから教えてもらおうと思ってここに座ったのに」
 なるほど、席はたくさん空いているのに僕の隣に座ったのはそういうわけか、と納得するのと、何で僕なんだよとうんざりした気持ちになるのとが同時だった。今日の夜のことを考えて、今のうちに本を読んで紛らわして置こうと思っていたのに。
「……いいよ。わかった。でも何でも答えられる訳じゃないよ」
 それでも断れないのが僕だった。他人を傷つけるほどの強さが無かった。それは臆病さでもあり、傲慢でもある。だからこそ西野陽菜の誘いを断れなかったというのもあるかもしれない。
 僕は三日月さんに気付かれないように、こっそり溜息をついた。
 どうやら今日は厄日のようだ。



 丁度夕飯の用意が出来たくらいで彼女は来た。
 チャイムに応じて玄関のドアを開けると、制服のまま一人立っている西野陽菜がいた。
「どうぞ」
 僕が一言声を掛けると、彼女は何も言わず無言で部屋に入ってくる。まるで自分の家とでも思っているかのような横柄な態度だ。
 彼女はキッチンの方を見ながら鼻をくんくんとならした。
「良い匂いだね」
「味噌汁。あとは魚を焼くんだ」
 僕の声を無視するように彼女はベッドの方へと歩んでいく。
 色々な事情があって、中学生の時くらいから僕は親と暮らしていない。だから料理を含めて家事全般は得意だ。嬉しくない特技だけど。
「今日は掃除してないから散らかってるけど……」
 彼女を追いかけてキッチンを通り過ぎ、部屋の中に入っていく。十二畳のワンルームマンション。一人で暮らすには広すぎる。僕はもっと質素でも良かったんだけど、親が勝手に用意したから僕の意図の入り込む余地はなかった。
「ご飯食べる? 一応二人分あるよ」
「黙って」
 そう言って彼女は僕に抱きついて体重をかける。
 全身が重力に支配される感覚。
 そうして僕は成されるがままベッドの上に倒れ込んだ。
 制服越しにも伝わってくる体温に、僕は身を震わせた。この体温だけが僕らの繋がりだった。言葉でも、概念でもない。あまりにも具体的で、あまりにもグロテスクな繋がりだ。
 彼女が僕に無理矢理唇を重ねる。生暖かい舌が口の中に入ってきたので、僕もそれに絡めるようにして舌を震わせた。彼女が唇を離すと、糸を引くようにして唾液が伸びた。
「ほんと、なんで六月に十月の文化祭の話なんかしなきゃなんないんだろうね、蒸し暑い体育館の中で……そう思わなかった?」
「ちょっとね」
 そう言いながら彼女は僕のシャツのボタンをゆっくりと外していく。図書館でペンを動かしていたときと同じで、動作は滑らかだ。だけどどう見ても優雅さは感じられなかった。
 一方の僕は意識を殺そうとして躍起になっていた。
「テスト明けで良いって私は言ったのに、いつも六月に言ってるからって先生がね……みんな聞いてなかったでしょ?」
「僕は聞いてたよ」
「黒崎君は賢いからね。どんなつまらないことでもきちんと聞いて覚えてる」
「……そんなことないよ」
 何も隠すものが無くなった僕の胸に顔を押しつける。筋肉も贅肉もない、貧弱で脆弱な胸。そんなものにすがったところで何も生まれないのに、彼女は僕に体重をかける。
 彼女の心臓の鼓動が肋骨を通して伝わってくると、共振するようにして僕の鼓動も加速する。這うように上がってきた彼女の指が、僕の口の中に侵入してきた。
「それに私、大勢の前で話すの苦手だしね」
「……そうなの?」
「そうなんだよね」
 唾液で湿った指を胸の上で円を描くように動かす。
 全身を緩やかに襲う電撃の様な感覚。僕は無心になって耐えようとした。ベッドのシーツを握りしめ、力を入れた。
 それでも耐えられずに小さく息を漏らすと、彼女は楽しそうな声で笑った。おぞましい和音が耳の奧で反響した。
「そういえば、今日、図書館にいたよね」
「うん」
「女の子といたね」
「……うん、っ」
 先を突くようにして刺激する指。彼女の愛撫に耐えきれなくなった僕は、彼女を強く抱き寄せる。行き場を失った彼女の腕が滑り落ちた。
 ねだるような目で見上げる彼女に応じるようにして、僕の手を彼女の足の間に這わせる。薄い布越しにも指先に湿り気が伝わってきた。
「黒崎君に話しかける人がいたんだ、と思って一人で笑ってた」
「今日初めて話したんだよ」
「ふーん。でも仲良さそうだったよね」
「まあ、勉強教えて、って言われて悪い気はしないからね」
 布の隙間から指を潜らせて、力を入れないようにしてなぞる。彼女は頬を上気させながら声を踊らせた。
「小学生みたいな子だったよね。黒崎君って実はロリコン?」
「……仮にそうだったら君とこんなことしないよ」
「ふふーん」
 息を漏らすようにして笑うと、彼女は僕の首筋に舌を這わせた。
 いつもなら暫くこうやっているうちに機嫌が治ってくるのだが、どうも三日月さんが気にくわなかったらしい。僕は彼女の頭を払いながら呟いた。
「良くわかんないけど三日月さんは悪い人じゃないみたいだよ」
「ふうん。三日月さんっていうの?」
「うん。今日初めて知ったんだけど」
 そう返事すると、彼女は無表情のままで僕をじっと見つめた。黒い瞳は真っ直ぐ僕に向けられていたが、何を見ているか分からなかった。沈黙を破るように彼女が呟いた。
「もう……いれてもいいかもね」
「うん、そうだね」
 僕がそう呟くと、彼女の唇が震えた。
 それでも何を見ているのかは分からなかった。
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