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第1話:彼の孤独と彼女の提案

 桜には色んな姿がある。
桜と言う言葉でたいていの人が思い浮かべるのは見事に咲き誇った満開の桜の姿なのだろう。でも、今まさに咲こうとして冬の寒空に耐える桜の木や、生命力に溢れた青々とした葉をつける葉桜など、桜には色んな姿がある。
だから、これもその一つなのかも知れない。
桜などとっくに散りきったこの季節に、校庭の隅に落ちて黒ずんだ花びらを見つめながら私はそう思った。



「ひーな!」
 朝、教室で次の授業の教科書を出していると、後ろから声がしたので私は振り返りながら笑顔を作った。人間ってのは不思議なもので、相手が笑ってれば何でも上手くいってると思い込める。
そして自分で言うのも何だけど、私は笑顔を作るのが得意だ。どんなに真っ暗な気分の時でも、すぐに綺麗な笑顔を作れる。練習したわけではない。いつの間にか染みついたのだ。
「祥子、おはよう」
「おはよう、陽菜……」
 祥子が気遣うような顔で私を覗き込む。彼女が今考えていることは手に取るように分かったけれど、私は気づかないふりをした。
「どうしたの? 顔に何かついてる?」
「陽菜、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「……だと良いんだけど」
 それでも祥子は心配そうな顔を崩さなかった。暫く私と彼女の間に沈黙が訪れる。その間隙を埋めるようにしてチャイムが鳴った。チャイムが鳴っても次の授業のために動こうとする人はいなかった。
「酷い……よね。噂で聞いたんだけど……一方的に?」
「まぁね」
 私は何でも無いことだというように軽い口調で返した。こういうことを聞く時って、普通、遠慮したりもっとオブラートに包んだりするもんじゃないのかな。ま、祥子はそこまで賢い女の子ではないので仕方無いと言えば仕方が無い。
私は息を漏らしながら祥子を安心させるように微笑みを作った。
「仕方無いことだよ……他に好きな人ができたんなら。私はあの人に幸せになって欲しいから」
「……」
「好きな人に……幸せになって欲しいと思うのは、当然でしょ?」
「ひなぁ……!」
「なんであんたが泣くのよ……」
「だってぇ!」
なんだなんだ、という人の声が聞こえてくる。私は笑いながら彼女の頭を撫でた。ほんと、なんでこいつが泣いてるんだよ。私が泣くべきだろ……泣かないけど。
「ね、明日、駅前の新しい店、食べに行こうよ……祥子、行きたいっていってたでしょ?」
「ひな……陽菜は良い奴だ……なんで良い奴なのに……」
「もうその話やめよ? ね? 面白くないし!」
 私はポケットに入っていたティッシュを祥子に手渡した。頼むから不愉快なので目の前で鼻水をたらすのは止めてほしい。
「うん……スイーツ、行く……」
「食い意地は張ってるんだね」
 彼女があどけなく笑ってティッシュで鼻をかむのを見ながら、目の前のこのデリカシーの無い女をどうにかしてやりたいという真っ黒な自分の感情を抑えるのに私は必死になっていた。だから、教室に先生が入ってきたのが救いに思えた。
「はい、席つけよ……おう、稲垣、大丈夫か?」
「だいじょぶです……すいません……」
「じゃ、授業始めますよっと」
 私はラインマーカーで線がたくさん引かれた教科書を開き、目を閉じた。朝から馬鹿な奴の相手をするのは疲れる。私は出来るだけ何も考えないようにしながら、先生の話を聞き、ノートをとった。考え出すと、自分がつぶれそうだった。



 そうやって午前中は真面目に授業を受けていると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
私は教科書をしまいながら立ち上がり、形式ばかりの礼を国語の教師にした。形式だけなら別にしなくてもいいと思うけど、ちょっとの努力で面倒なことに巻き込まれないで済むならした方が良い。私が手についた消しゴムのカスを払っていると、祥子とその友達である瀬川さんが私に駆け寄ってきた
「陽菜、学食行こう!」
「うん……今日お弁当持ってきたし……」
「え、でも学食で食べればいいじゃん」
 瀬川さんが綺麗にマニキュアの塗られた自分の爪を見ながら退屈そうな声を上げた。髪の毛を汚い茶色に染めた瀬川さんは、祥子の部活のメンバーらしく、2年になってこのクラスになってから私は知り合った。だからまだお互いの距離感が分かってないので、私はさん付けで呼んでいる。
「ごめん……今日は、一人で、食べたくって……」
「ハハッ、根暗の奴みたい!」
 瀬川さんが馬鹿にしたような声を上げる。昨日私に何があったか知ってる上で言ってるんだろうな……こいつも馬鹿なんだろうか。でも変に気を遣われるよりこういう扱いを受けた方が良いような気もするけど。
「綾ちゃん! 今日は仕方無いじゃん!」
「ま、知ってたけどね。初めてだったんでしょ?」
「まぁね」
 瀬川さんの問に対し、朝、祥子に返したのと同じ言葉を投げつける。そう、告白されたのも、付き合ったのも初めてだった。でも、こんな話したくもないし考えたくもない。私は話を逸らすことにした。
「そういやさ、瀬川さんも、明日、来る? 駅前の新しく出来た喫茶店行くんだけど?」
「お、いいじゃん。今日バイト代はいるし、なんか奢ったげよか?」
「ほんと?」
「綾ちゃん、私も! 私も!」
「あんたに奢る理由無いじゃん」
「だめかー!」
「じゃ、今日は、ごめんね」
 私はそう言ってお弁当箱と水筒だけ持って教室を出た。後ろで二人が何かを言っていたような気がしたが、無視した。もう聞きたくなかった。
 そして私は屋上へと足を運んだ。
 そこで『彼』に出会うことになるとは夢にも思わずに。



 私が誰もいないだろうと思って屋上の扉を開けると、先客がいた。
 すこし癖のあるショートカットで、ひょろっと背が高く、虚ろな目をした男の子がいた……上履きの色からして一年生だ。私がドアを開けて屋上にでた瞬間だけ私を一瞥したが、すぐに手に持った文庫本に目を落とした。こいつだったらほっといても無害っぽい……。
 私はフェンスのそばに腰掛け、お弁当を膝の上に開き、空を見ながら食べ始めた。5月の空は果てしなく青くて、澄みきっていたが、私の心はどす黒いままで、澱みきっていた。口の中に放り込んだミートボールからは何の味も感じられなかった。私は食べるのを止め、弁当箱の蓋を閉じた。
藻掻けば藻掻くほど沈む底なし沼のように、気を取り直そうとすればするほど絶望がはっきりと刻まれていった。何も考えなければいいと思えば思うほど、考えが止まらない。私は苦しくて苦しくて仕方が無かった。
 兎に角違うことを考えようと思って、ふと一年生の男子を見ていると、先程と全く同じポーズで微動だにせずに本を読んでいる。友達ができなかったのだろうか。それとも作ろうとしていないのだろうか。私は彼に近づいて声を掛けてみることにした。
「ねぇ」
 私が声を掛けると、彼は座ったまま顔を上げた。
「お昼ご飯は? 食べないの?」
「……一日二食なんだ」
「一緒に食べる人とかは?」
「そんな人がいたらこんなところにいないよね」
「……生きてて楽しいの?」
「楽しいよ? 死にたくないから」
 特徴のない平坦な声で淡々と返事をする彼を見て、私は『歪んでいる』という印象を受けた。何処の誰かも分からないような上級生の女子に話しかけられて平然とこんなにシニカルな返事をする彼に私は興味を持った。
「隣、いい?」
「どうぞ」
 彼は一言言うと、また文庫本に目を落とした。私は彼の隣に座った。
「一年生、だよね? 何て名前?」
「……黒崎、黒崎悠人」
 彼は眉をひそめ少し戸惑ったような顔をしたが、返事をしてくれた。
「私、二年生の西野陽菜って言うんだ」
「知ってるよ。文化委員長でしょ?……説明会に出てた」
「なんでそんなの覚えてるの?」
「一回見たら覚えられる」
 彼は文庫本を閉じ、私の方を向いた。端正な顔立ちだった……雰囲気とのギャップに私は少し驚いた。
「それで、文化委員長さんが何か用ですか?」
「いや、別に。暇そうだから相手してもらおうと思って」
 私がそう言うと、彼は少し困った様な笑みを浮かべた……中性的で、汚れのない、吸い込まれるような笑い方だった。
「ところで、ここ立ち入り禁止なの知ってた?」
「張り紙があったし、ロープもかかってたし、先生からも説明があった……だからこそ、人がいないと思ってね」
「ふうん……何で禁止か知ってる?」
「さぁ? 危険だからじゃない?」
 彼は対して興味もなさそうに返事をした。ところで上級生の私に対して敬語も使わない彼の倫理観はどうなってるのだろうとか思ったけど、特にしたい話でも無いので考えないようにした。
「昔、ここから飛び降り自殺した人がいたんだって……だから生徒も近づかないんだ」
「ふうん」
 彼は少しも驚くことも無く、また文庫本を開いた。カバーが外してあって、何を読んでいるかは分からなかった。でも、劣化して汚く黄ばんだ表紙は、とても気軽に読めそうな雰囲気ではなかった。
「まぁ嘘なんだけど」
「嘘なのかよ」
「だったら面白いなぁと思って」
「何が面白いんだよ。不謹慎でしょ」
 どうやらまともな倫理観は持っているみたいだった……敬語は使わないけど。私はスカートの裾を伸ばして整えた。その時、あることを思いついた。
「ねぇ、ちょっと長いけど、私の話聞いてくれる?」
「さっきからずっと聞いてるよ?」
 彼は文庫本から目を逸らさずに答え、足を組み替えた。私がどこから話しだそうと思ってすこし黙っていると、彼がページをめくる音が風の中に散らばった。
「昨日、この場所で、8ヶ月ちょっと付き合った彼氏に振られたんだ」
「ふうん」
 さっき嘘を言った時と全く同じトーンの「ふうん」が返ってきた。私は少しイラッとしたが、話を続けることにした。
「最初は全然好きじゃなかったんだけど……好きだ好きだって言われてるうちに、何か私も好きになっちゃって」
「うん」
「デートとかも楽しかったし、一緒にお弁当とかも食べたし……エッチはしなかったけど、手は繋いだし、キスはした。……幸せだった。」
 私は空気に向かって喋る用に淡々と話していたが、それを見た彼は相槌を打つ代わりに文庫本をまた閉じた。どうやらきちんと聞いてくれる気になったみたいだ。私がほぼ一方的に喋っていたが、彼はきちんと聞いてくれているような安心感を与えてくれた。
「でも『他に好きな人が出来たから別れて欲しい』って言われた」
「……そう」
「で、私、何て答えたと思う? 『いいよ、自分の好きな人に幸せになって欲しいと思うのは当然でしょ?』って答えたんだよ」 「……」
「どう? 偉くない? どう思う?」
「変だね」
 彼は無表情な顔でそう返した。私はムッとしたような気分になって、彼に聞き返した。
「どういう意味?」
「だって、自分が幸せになりたいって思うのが一番のはずでしょ?」
「……。」
「自己犠牲が貴いなんて偽善だよ……自己犠牲が正しいなら、みんな生きてる限り誰かや何かにに迷惑をかけてるんだから、今すぐみんな死ぬべきだと思わない?」
 彼が先程とはうってかわって雄弁に返事をするのを聞いて、私は鉄砲玉で頭を打たれたような気持ちになった。
 ……偽善? 私が、偽善者?
「偽善? 私が?」
「そう。西野さんは、その元彼のことを考えたんじゃなくて……彼を悪者にして終わらせようとしたんじゃない?」
「……そんなこと、ない!」
 私は思わず大声を出してしまった。目頭が発火するように熱くなるのを感じた。けれど、それを見ても彼の顔は動くことは無かった。
「私は、あいつに……裕弥に……幸せに……」
「気に病む必要は無いよ……だって実際、その元彼が自分の都合でやったことなんだから、彼が悪者なんだし」
「違う、あいつは!」
「……ま、君やその元彼の事なんて何も知らない僕の解釈だから。どう考えるかは君の自由だよ」
「違う……」
 彼が放った自由という言葉が鋭利な刃物の様に私に突き刺さった。一方で私の否定の言葉は虚しく屋上に響くだけだった。
「困ったなぁ……『どう?』って聞かれたから言ったんだけど……ごめんね。ずけずけ言っちゃって」
「謝るくらいなら、言わなければいいのに……」
「それもそうだね……」
 彼は困ったような顔をして黙り込んでしまった。
でも、冷静になって考えてみれば彼の言おうとしていることはおそらく私にとって図星だったんだと思う。聖人君子の自分を作り上げて、自分を一方的な被害者に祭り上げて、自己完結しようとしていた。言われてみればそうなのかも知れない。
それでも他人にそれを指摘されたことに腹が立って、何か言い返してやろうと考えていると、彼はそれを読み取ったかのようにポケットからそっとハンカチを出して私に差し出した。皺一つ無く綺麗に折りたたまれたそれで、私は涙を拭った。
「言うことは意地悪なのに、優しいんだね」
「『優しさ』なんてそれこそ偽善だよ」
「なんで?」
「だって、僕の気持ちは僕以外の誰にもわからないのに……それを誰かがわかったような気になって思いやるなんて偽善以外の何物でもない」
 彼は一呼吸置くと、続けた。
「だから僕は君の気持ちはわかってないけど、分かったような気になって行動はできる」
「それじゃ、気持ちが伝わるって言うのは?」
「うーん……気持ちって、伝わってる時と伝わってない時があるよね。だからやっぱりディスコミュニケーションが本質なんだと思うんだけどなぁ……」
彼は左手で口元を押さえ、すこし考え込むような動作をした。その優美な動作に私は思わず少し見とれて、暫く見つめていた。 「あのね、いつもそんな事考えてるの?」
「……ん?」
「いや、そんな難しいこと考えてるの?」
「まあね。独りぼっちだと友達は少なくても時間はたくさんあるから」
 そういって彼は自嘲的な笑みを浮かべた。私がぼーっと彼を見つめていると、彼は気恥ずかしそうな微笑みを浮かべながら口を開いた。
「――そろそろ、次の授業が始まるよ、委員長さん」
「そうだね……ハンカチ、洗って返すよ」
「いいよ、洗わなくても」
 そう言って彼は私の手から汚れたハンカチを優しく取り上げたが、私はそれを強く奪い返した。
「洗わせて……いいでしょ?」
「う、うん」
 それだけ言って、私は彼より先に階段を下りた。彼のハンカチをポケットにしまう前にじっと見ていると、洗って返すという機会が出来ればもう一度彼と話す機会ができるという計算をしている自分に気がついた。
 彼のハンカチは、私を見透かすように綺麗な薄青色をしていた。



 昨日約束した店に、祥子と瀬川さんの3人で行った。
でも、正直言って、私は甘い物があまり好きではない。
嫌いというわけではない。ただ甘いだけのスイーツが苦手なのであって、洋酒の味が強いケーキとか、ビターチョコレートとかは好きなのだ。その境界は自分にもよくわからない。だから祥子に何故か聞かれた時、上手く返せなかった。
「おいしかったね……でも陽菜はなんでそんな苦いのを食べたの?」
「うーん……なんでだろうね。でもおいしかったよ」
私が食べたのは苦いと評判のビターチョコレートを使ったティラミス。祥子が食べたのはいかにも甘そうなフルーツパフェ。瀬川さんもいかにも甘そうな抹茶パフェ。どうやらその店はパフェが有名らしいが、写真を見ただけで胸焼けがしそうな程クリームが乗っていたので私は選べなかった。
「まあお前は舌がガキだからわかんないんじゃない?」
「綾ちゃんひどーい……綾ちゃんだって甘いの食べた癖に!」
「良いじゃん別に」
 二人が笑っているのを見ながら、私も苦笑いした。流石にそこまでストレートに言うのはどうかと思う。瀬川さんが今度はこちらに向いた。
「で、甘い物食べて、忘れられた?」
「……まあね。忘れては無いけど、諦めはついた、と思う」
 そう言ってから、私は駅前の商店街の人混みの方を見つめた。名前も知らないたくさんの人が蠢いている様子はなぜか不気味に見えた。……正確に言えばあきらめはついたけど、忘れられない。彼は私の偽善の跡だ――自分が利己心にまみれた汚い奴だと証明している。
 私が少し黙っているのを不安に思ったのか、祥子がいきなり明るい声を出した。
「陽菜……新しい恋に生きなよ!」
「ハハ、でも暫くは大人しくしてようかな」
「気になる人とかいないの?」
「いない」
「ふーん、つまんないね」
 そう言いながら瀬川さんは道に落ちていた紙パックのゴミを蹴り飛ばした。正直で良いと思うけど……。――優しさなんて、それこそ偽善だよ、か。私は心の中で彼の言葉を反芻していた。
「綾ちゃんストレートすぎだよ! 見せ物じゃないんだから」
「そういって祥子も楽しんでるでしょ? 西野って競争率高いからね」
「うん、むぅ……そう、だね」
昨日の夜洗濯して乾かしてアイロンを当てたハンカチは、今も私の制服のポケットの中に入っている。私はポケットに手を突っ込んで、それに軽く触れながら、笑顔を作った。
「兎に角、暫くは大人しくしてるし……好きな人ができたら、二人には教えるから」
「うんうん、応援するからね!」
 瀬川さんはまだ訝しそうな目で見ていたが、祥子が握り拳を振り回した。応援ってなんだよと思うんだけど、納得してくれるならそれで良い。
 そこでふと商店街の本屋を見ると、中に見知った顔があるのに気がついた。私が思わず足を止めると、二人も3歩くらい進んでから止まった。
「私ちょっと本屋よらないといけないから……また明日ね」
「ああ、うん、また明日」
「ばいばい!」
 小さく手を振りながら、二人が行くのを見送った。私は二人が戻ってこないことを確認しながら、目立たないように本屋の中に入った。昔からある本屋だからか少しカビ臭い匂いが店の中を漂っていて、その匂いのせいで鼻の奥がつんとしたのを感じた。
私は音を立てないように彼の背後に忍び寄り、小さな声で話しかけた。
「何読んでるの?」
「っ……! おっとっと」
 私が急に話しかけると、黒崎くんは驚いて本を落としそうになった。私がそれを見て笑うと、彼はバツの悪そうな顔で私の顔を見た。
「なんだ委員長か……そろそろ店員に怒られるかなと思ってたんだよ」
「その委員長って言うのやめてよ。なんか偉い人みたいじゃない」
「偉くないの?」
「あはは、生徒会なんて飾りみたいなもんじゃない」
「でも一般生徒の僕よりは偉いんじゃない?」
 そう聞き返した彼を無視して、私は彼の読んでいた本のタイトルを読み上げた。
「『自殺論』? 何この薄気味悪そうな本」
「デュルケームだよ。怪しい本じゃない。社会学の古典みたいな有名な本さ」
 彼はその文庫本をひらひらと振りながら微笑んだ。自殺かぁ……自分には全く想像の出来ない状況だ。黙って彼を見ている私から目を逸らしながら、彼は話を続けた。
「図書館でちょっと読んで見て面白かった本は買うんだよ」
「一回読んだのに?」
「手元に置いておきたいからね」
 そういって彼は嬉しそうに文庫本の背表紙をなぞった。私はそれを見ながら溜息をつき、そして二人の間にしばしの沈黙が訪れた
 私は彼に何か言いたかった。というか多分、何か仕返しがしたかったんだと思う。昨日自分の汚れた部分をはっきりと示されたことに、仕返しがしたかった。
私はうっすらとした微笑みを作り、媚びるような声を出してみた。
「黒崎くん、この後予定とかある?」
「ないよ。家帰って寝るくらいかな」
「じゃあ……また、話、聞いてくれない?」
 彼は少し驚いたような顔をしたが、黙って頷いてくれた。
「買ってくるから、ちょっと店の外で待ってて」



 夕方の公園は誰もおらず、気味が悪いほどの静けさが辺りを覆っていた。
 茜色の空を、黒いカラスが夜の闇から逃げるように飛んでいく。鳴き声が辺りに反響しながら遠ざかって行く。私が砂を払ってからブランコに腰掛けると、彼はブランコの周りにある柵に腰掛けた。私はそれを確認してから、話しかけた。
「ねえ、黒崎くんは、人と話すの、好き?」
「嫌いじゃないよ……ただ、特別好きな訳でもない」
「ふうん」
 彼はそう言って俯いた。表情は変わらなかったが、彼の顔に影が差した。
「私はね……嫌いだな」
「へぇ、意外だね」
「そう?」
 私が戯けた声を出すと、彼は少し苦笑いするような乾いた声を出した。
「委員長は活発にみえるからね」
「そんなに活発にしてるつもりないけど……ってか委員長ってやめてよ」
「ああ、ごめん……西野、さん」
 少し戸惑った声で、彼はさん付けで呼んだ。ありふれた名前なので、あんまり好きな名字ではないが、委員長と呼ばれるよりはまだマシだ。私は作り笑いを浮かべながら、話を続けた。
「話をするのって疲れるじゃない?」
「うん」
「話題を出して、話題を切らないようにして、自分が話題からはみ出さないように……そんな風に気を遣ってたら、息苦しくて仕方無いとおもわない?」
「そんな風に気を遣ってたらね。僕はそんなこと考えてないけど」
「そもそも人とそんなに話さないんじゃないの?」
「まあそれはあるね」
 彼はそういって困ったように笑った。明らかに攻撃しているのに、守ろうともしない。確信した――彼なら、この提案に乗ってくれるだろう。
「それでね、黒崎くんに言われて考えてみたら、わかったんだ」
「……何が?」
「黒崎くん、言ってたよね? 『僕の気持ちは僕以外の誰にもわからないのに……それを誰かがわかったような気になって思いやるなんて偽善以外の何物でもない』」
「うん……一言一句正しいかはわかんないけど」
 彼は無表情だった。私の中でどす黒い感情がふつふつと湧いてくるのが分かった。
それは、今までずっと胸の中で止めていたもので、今まで表にあふれ出さないようにしていたものだった。
それは私の心を上から塗りつぶすようにわき上がっていき、それはあり得ないほどの快感を自分にもたらした。
「私ね、疲れちゃったんだ。その『偽善』に」
「……」
「だからね、それを全部潰して、めちゃくちゃに汚してくれる人が必要になったんだ」
「『潰す』って……?」
 私はブランコから立ち上がると、ゆっくりと彼に近づいた。それでも彼は無表情で、一片の感情も感じ取れなかった。彼と距離を詰めた私はその彼の顔に触れた。
「もっと単純なもので人と繋ってみたいんだよね」
「……具体的に」
「損得とか、欲望とか、そういうことだけで」
「……つまり?」
 私は彼を舐めるように見つめると、彼は私を睨むようにまっすぐ見つめ返した。川の流れに流されるがままになっている枯葉のように、私の話を聞いている。私は彼の耳元で呟くように提案した。



「私と、オトモダチにならない?」
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