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第0話:彼の虚無と彼女の快楽

 昔の偉い哲学者は人間の精神と身体は分かれていると考えていたらしい。
 分からない人からすれば、何を言っているのか分からないと思うかも知れない。
 しかし、今の僕はそれを全面的に肯定したい気持ちでいっぱいだった。



 窓の外から、雨が屋根を打つ音が聞こえる――その大きな音は小さな僕らを布で隠すように覆っていた。薄暗い灰色の部屋に、雨の音と、彼女の声だけが反響していた。
「あ……う……」
 上気した彼女の頬が快楽で歪む。僕が柔らかな割れ目に沿って指を動かす度に、彼女は気持ちよさそうに吐息を漏らした。彼女は折れそうなほど細い腕で僕を抱きしめ、無理矢理に唇を重ねる。緩やかに口の中に侵入する彼女の舌に自分の舌を絡めながら、僕は湿った指で彼女の首筋から胸をなぞった。
「ん……あ……」
 彼女がそうやって気持ちよさそうに喘ぎ声を上げる度、僕はどんどん気持ち悪くなっていた。でも、身体は大声で彼女を求めていた。肌から肌へ直接伝わってくる彼女の体温を欲していた。それなのに、どんどん気分が悪くなっていった。どうしてかわからなくて、気持ち悪くて、気持ち悪くて、仕方が無かった。
「ねぇ……もう、いれていいよ?」
「……待って。ゴムつける」
 催促するように僕を抱きしめようとする彼女を静止すると、僕は素早く袋から出したゴムをつけた。最初は手間取ってあたふたして彼女に怒られたものだが、数回もすれば慣れてしまった。慣れとは恐ろしい――だが、もっとマシなことに慣れたかった、と思った。
「じゃ、いれるよ?」
「うん……あ」
 僕がゆっくりと『それ』を彼女に差し込むと、彼女は小さく甘い声を上げた。僕と彼女が一つに繋がる。ゆっくりと腰を動かすと、暴力的な快楽が僕を襲った。
「っ……ん、あ……っ!」
 僕の腕を掴んでいる彼女の手がどんどん強くなっていく。少し痛いと思ったので、腕から引き剥がし、彼女の指と指の間に僕の指を通して手を繋いだ。彼女の指が、大きな爪のように、僕の手の甲に食い込んだ。
「あ……んっ、あ!」
 彼女の甘い声が鼓膜の奥で強く響いたが、僕は何にも考えないようにして腰を動かした……考えれば考えるほど吐き気が強くなり、目眩がしそうになった。早く終わらせたくて仕方が無かった。
「……っ!」
 少し強く締めつけられた様な感覚を覚え、彼女が絶頂を迎えたことが分かった。彼女は荒い息を吐き出し続けていた。それを見ながら僕はゆっくりと抜き出し、後は自分でなんとかした。今日は早く終わってくれたので、僕はいつもより幾分かマシな気分だった。
「……黒崎君、ごめんね」
「何が?」
「また、先に……」
 彼女はとろんとした眼をこちらに向け、僕に囁いた。僕は黙って彼女の頭を撫でると、彼女は猫のように欠伸をした。何も話さない方がいい……思ってもいない謝罪の言葉は罪だ。それにかける同情の言葉も罪だ。
「寝ていい?」
「……うん」
「一時間くらいしたら起こしてね」
「わかった」
 そう言って彼女は布団を被って瞼を閉じた。僕は彼女に布団をかけ直し、シャワーをあびるためにタオルを手に取った。そして僕は身体に付着した彼女の痕跡を洗い流すようにシャワーの湯を全身に当てた。水で洗ったところで流れ落ちるはずのない汚れが僕を蝕んでいるような気がした。



 ああ、そうか、思い出した。
 これは、汚れきった僕と汚れきった彼女の話。
 そして、救えなかった僕と、救われなかった彼女の話。
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