▼16/02/06更新分から読む


Episode37: 大げさに悲しまずに(前編)




 朝七時頃。
 目が覚めたので顔を洗って着替えてから、バルコニーに出た。雲一つない快晴で、空は吸い込まれるように深い青色だった。風が心地よく、陽光が眼球を刺す。夏とはいえ朝なのでまだ気温が上がりきってはいない。だが、今日も暑くなりそうだ。柚木のライブに出かけるのは夕方になってからなので、一番暑い時間帯では無いとはいえ、外に出るのは気がひけるな。
 昨日、柚木のおっさんがうちに来て、凛を呼んだ。店が閉店する時間になってもおっさんと凛の話は終わらなかった。8割方滅茶苦茶下らない下ネタだったが、深夜二時くらいから始まった凛とおっさんのギターバトルは見ものだった。俺の親父のギターとアンプを使ってソロ回しが始まり、俺と親父は手を叩いて喜んだ。おっさんの高速タッピングと同じ速度で凛が全く同じフレーズを弾いた時は舌を巻いたし、おっさんのクソ渋いチョーキングには鳥肌が立った。
 結局、何時ごろに寝たのか分からないが、凛とおっさんはうちに泊まった。さっき顔洗うために二階に降りたら、二階のリビングの床に凛とおっさんが死体のように転がっているのが見えた。ふたりとも全く同じポーズで、笑ってしまった。いや、しかし、いいんだけど、よく他人の家で堂々と寝れるよな……。
 柚木も来るかと思っていたが、流石に本番に備えて、ゆっくり寝ることを選んだようだ。バルコニーの端から、眼下に見える柚木の家に目をやった。小さいが、二階建ての一軒家で、手前には駐車スペースが付いている。
 俺がそうやって柚木の家をじろじろと見ていると、背後から気配がした。振り向くと、柚木のおっさんが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう……昨日の晩は激しかったネ……」
「あなたのギターソロがね」
 朝から下ネタを四方にふりまく中年男性に対し、俺が冷静にツッコミを入れると、おっさんは「ツッコミなれてるなぁ」と言いながら乾いた笑い声をあげた。あなたの弟子に鍛えられたんですよ。
「昨日の夜言及しなかったけど、凛が鷲くんと同じ学校で、しかも一緒にバンドやってると思ってなかったよ」
「俺も凛から『ギターのおっさん』の話は聞いてたんですけど、それがあなたとは思ってなかったですよ」
「いやぁ、世間って狭いねぇ……」
「ほんとに」
 俺は深く頷いた。
「鷲くん、ここ、タバコ吸っていい?」
「ああ、はい、まあ外だし」
 そう言うとおっさんはゆっくりとした手つきでアロハシャツのポケットから煙草とライターを取り出した。俺はおっさんから目を逸らし、また柚木の家を眺めた。隣からライターの着火音が聞こえ、鼻腔を抉るような煙草の香りがしてくる。
「あの家……理子、つまり柚木の母の両親のなんだ」
 俺の視線の方向を読んで、おっさんが話しかけてきた。
「あいつが大学卒業して、実家通いで働き出した頃に事故で二人とも亡くなっちまってさ。理子がそのまま相続した」
「あなたも住んでたんですか?」
「一瞬、な。結婚してから、柚木がしっかり二足歩行始めるまでの間くらいだな。あの頃が一番幸せだった」
 そんな動物みたいな言い方しなくても。ただ、よちよち歩きをしている幼い柚木を想像して自然とにやけそうになったので、頬の内側を噛んで誤魔化した。
「理子は……気負っちまったんだろうな。忙しい仕事始めたばっかりで両親が死んじまって、俺はなかばヒモだったし、子供も生まれて……」
「俺、事情良く知らなかったから、おっさんの浮気かなんかじゃないかと思ってました」
「いやいや、俺、一途なんだよ。よくそうは見えないって言われるんだけど」
 さりげなく失礼なこと言ったのにスルーされた。笑いながらおっさんは紫煙を燻らせた。臭気を放つ白い気体は空中へと舞い上がり、朝もやの中に溶けるように見えなくなっていく。
「ところで、鷲くん、まだ柚木と付き合ってるんでしょ?」
「あれ、付き合ってるって言いましたっけ?」
「え、ほんとだったの? いやカマかけてみただけなんだけど」
 ほんとイチイチ腹立つなこのおっさん。俺がムスッとして黙っていると、おっさんは声を挙げて笑い、口の端から煙草の煙がだくだくと噴き出た。
「いやまあ、昔からあれだけ仲良かったんだから、当然の結果だろ」
「まあ、そうですね。色々ありましたけどね」
 確か柚木が二、三歳の時に近くの公園で出会って、それからの付き合いだった。そのころはまだ確かおっさんも向かいの家に住んでたよな。
「で、それ、凛には言ってないみたいだな」
「……はい」
「なんで?」
 痛いところを突かれてしまった。俺は溜息をつきながら遠くを見て黙り込んだ。黙って誤魔化そうとした。言いたくなかったし、考えたくも無かった。
 俺はずっとこうやって黙り続けていた。凛は俺のことがまだ好きかもしれない。でも俺は柚木が好きだ。柚木と付き合っているし、別れたくない。柚木も望まないだろう。それに凛が酔っぱらって俺に好きだって言ってたけど、酔っぱらって訳が分からなくなって言ったことかもしれないし、第一一年も前のことだからもう気が変わってるかもしれない。だから大丈夫、考えなくて大丈夫。こんな風に自分の中で唱えて誤魔化し続けてきた。
 俺が黙して口を開かないので、おっさんは煙草を口に当ててから、溜息をつくようにして煙を吐き出し、話を始めた。
「去年……九月ごろ、いったん帰って来たんだよ。その時にたまたま凛と会ったんだ」
「はい、聞きました」
「久しぶりに会ったら滅茶苦茶大きくなっててさ……いや、おっぱいじゃなくて、背が」
「誰もそんなこと聞いてませんよ」
「とにかく小学校の頃とは全く違うんで驚いたよ。でもすっごい悲しそうな顔でさ、なんか好きな人と喧嘩したらしくて、半泣きで俺に『好きな人が出来た。仲直りしたい』って言ってたんだよ」
 そう言っておっさんはまた乾いた笑い声をあげた。
「鷲くん、知ってる、というか気づいてるんだろ? だから言わないんだろ?」
「はぁ……」
 俺も溜息をついた。何故俺は朝からこんな話をゲスい中年男性にしているのだろう。
「凛が、去年、間違ってお酒を飲んだんですよ」
「何の話?」
「関係ある話ですよ」
 俺はおっさんのマネをして、わざとらしく乾いた笑い声をあげた。去年の話だけど、昨日のことのように思い出せる。丁度、背後にある俺の部屋で起きたことだった。話せば何となく頭が整理されるような、そして俺の罪が軽くなるような気がした。
「去年、喧嘩してたころの話です。きちんと話して、仲直りして、それからこの家でバンドメンバーで集まって次のライブの相談をしたんですよ。その時、ジュースと間違えて飲んだんですよ。あいつ、めっちゃくちゃ酒弱くて、チューハイ一缶で前後が分からなくなるくらい酔って……」
「へぇ、意外だ……イメージでは酒豪だと思ってたのに」
「それで、俺に泣きながら謝ってきたんです。『しゅーくんのこと、好きになんてならなければ』って」
 俺はそこで言葉を切った。
「俺はどうすればいいかわからなくなった。その時まだ正式に柚木と付き合っていたわけじゃなかったんですけど、柚木も俺と付き合う気があるみたいだと言う確信を得た頃だったんですよ。凛にそう言ってもらって嬉しくなかったわけじゃなかったんですけど、凛の気持ちに答えることはできなかった……俺は柚木が好きだったから」
 「柚木が好き」ってはっきり言ってから、目の前にいる人が柚木の父親だったということに気が付いた。急に恥ずかしくなったが話を続けた。
「朝起きたら、凛は記憶を全く失ってました」
「凄いな、それ。都合よすぎだろ」
「俺もそう思いましたけど、それで助かったんです。俺はそれで返事をしなくて良くなったんです。凛は何も言っていない。俺は何も聞いていない。凛の気持ちには気づいていない……だからさっきの答えはこうです。『俺は気づいていない。何も知らない』」
 おっさんは返事をする代わりに咥えていた煙草を、ズボンのポケットから出した携帯灰皿に押し込み、二本目の煙草に火をつけた。俺は長く話して少し疲れたので、空気を深く吸い込んだ。ほんの少し煙草の香りがする空気が肺の中を満たした。
「凛はまだ君のこと、好きだと思う?」
「わかんないです。凛は、あの日から……喧嘩して、仲直りした日から、俺に対して抑制的になってる気がします。きっと凛も俺とバンドを続けたいんだと……というか、今の関係性を続けたいんだと思います」
「へぇ」
 俺がそう言うと、おっさんは意外そうな顔で呟いた。なんだか失礼な空気を感じるな……人の気持ちに鈍感だって周りから言われるんだけど、口にしてないだけで、気づいてないわけでは無い。まあ、最近になって気が付いたことなんだけど。
「関係が壊れるのが、怖いんだな。ふたりとも」
「そうですね」
「難しい問題だなぁ……」
 おっさんはそう言って、また笑い声をあげた。「難しい問題」って。俺の長広舌が五文字でまとめられてしまった。いやまあいいんだけど。
「昨日も言ったけど、俺にとって柚木も凛も娘みたいなもんだからな。しっかり者だけどさびしがり屋の長女と、おてんばで天才肌な次女って感じ」
「うまいこと言いますね」
「だろ? 娘だから、二人ともに幸せになってほしいんだけど……その状況だとそうもいかないよね……」
「なんか、ごめんなさい」
「いや、君は悪くない」
 おっさんはそう言ったが、俺はここ最近の自分を恥じた。その娘二人を巻き込んで、少なくとも一人を、どっちつかずな態度で不幸にしているのは俺だ。俺が落ち込んで、バルコニーの硬い地面を見つめていると、おっさんは俺の肩をバシバシと叩いてきた。
「まあ落ち込むなって。人間以外と何とかなるから!」
「あなたに言われるとそんな気がします」
「わっはっは。そうだな。これは俺からのお願いだけどさ」
 おっさんは二本目の煙草を手に持ち、欄干にぶつけて灰を落とした。灰が空中に舞い、風の中で砕け散り、一つになって空に飛んでいく。
「俺が言う資格あるのかって話だけどさ。凛を、近いうちにふってやってほしい」
「ふるって……告白されたわけじゃないのに」
「いや、というか柚木と付き合ってるってことを伝えてほしいんだよ。もちろん状況は選ばないとダメだろうし、すぐにとは言わないだろうけど。変な希望を抱き続けるよりは幸せだろうな」
「伝えるタイミングが難しいですね」
「そうだね……でも、取り返しのつかないことにならないうちに、さ」
 おっさんはそう言って煙を吐き出した。俺はおっさんから目を逸らし、空を見上げた。
 取り返しのつかないことになる前にか。
 真夏の空は青く、ただ、ひたすらに青だった。




 朝予想した通り、その日は猛暑日だった。
  バルコニーで話した後、おっさんは帰って行った。凛も朝起きたら無言で帰って行った。人んちで暴れるだけ暴れてあっさり帰っていく辺り、本当にそっくりの子弟だ。
 急に一人になって時間を持て余した俺は、暑いので外に出る気にもならず、クーラーをかけた室内で夏休みの宿題を片付けたり、ベースの練習をしたり、漫画を読んだりしていた。だが、それにも飽きて、今はベッドの上でひたすらゴロゴロしている。酷く安らかな気分だ。
 結局柚木は来なかった。何してるんだろうか。練習かな。本番前だしな。去年、俺たちが夏祭りのライブに出た時も朝から集まってずっとスタジオで練習してたな。
 しかし暇だ。
 俺は勢いをつけてベッドから立ち上がり、外出する用意をした。服を着替えて、去年柚木からクリスマスにもらった腕時計をつける。時間を確認すると四時くらい。凛や哲平と約束しているのは六時だから、だいぶ早いけど、もう出かけてしまおう。
 自転車に乗って、会場の海浜公園までは約三十分ほどだ。蒸し暑い空気を掻き分けるようにして走っていく。暑いといえば暑いんだけど、風があればそこまで不快ではない。自転車に乗るのはいつもだいたい凛の家のスタジオで練習する時くらいだから、楽器の質量分の負担が膝にかかるんだけど、今日はそれが無い分軽やかに走れる。
 川沿いの道を通り過ぎ、大通りに出て、走り続ける。海に近づくと車通りが多くなってきた。車に気を付けながら左車線の端を走っていく。夏休みだし、丁度お盆の時期だから、海辺に遊びに来ているんだろうな。でも確かお盆の時期に海とかに入ると、ご先祖様にあの世に連れてかれるとかいう迷信があった気がするけど……まあ迷信は迷信だしな。そもそもお盆の時期に家族全員で集まって出かける人が多いのだから、水難事故が起きる確率も増えるだろう。分母が増えれば分子も増えるという奴だ。
 駐輪場に自転車を止め、人だかりの方に近づいて行った。まだ明るいのに人がたくさんいる。人ごみの中を縫うようにして歩く。家族連れや小学生の群れ、あとは中高生のカップルばっかりなので、男一人で歩いていると、ちょっとむなしくなってきた。何やってるんだろ、俺。
 暑くなってきたので、かき氷を買って、木陰に座って食べた。海が間近に見える。海は気味が悪いくらい深いコバルトブルーで、良く晴れた空とコントラストが美しい。ついでに海辺で戯れるカップルも見える……死ね。柚木と付き合い始めてもやっぱりカップルを見ると殺意が湧くのは条件反射なのだろうか。パブロフの犬的なアレなのだろうか。
 かき氷を口に入れると猛烈な冷たさが舌先を襲った。いちご味だ。小学校の頃、夏祭りで柚木と一緒にいちご味のかき氷を食べたことを思い出す。その時から柚木と暫く話さなくなったので、あんまり良い記憶じゃないんだけど、いちご味の冷たいものを食べるといちいちフラッシュバックするんだよな。
 かき氷を食べながら木陰から海を見つめていて、ふと既視感に襲われた。そうだ。そう言えばここ、去年凛と一緒に座って話した場所だ。何の話ししたかちゃんと覚えてないけど、たしか「ギターのおっさん」の話を初めて聞いたような気がする。
 ――柚木と、凛か。
 今朝「ギターのおっさん」から言われたことを少し思い出す。俺は……俺は多分、柚木も、凛も、好きだ。いや、なんか誤解を招くような表現だけど、恋愛対象としてという意味ではなく、友人としてというか、人間としてというか。
 柚木も、凛も、良い奴だと思う。確かに柚木はしっかりしすぎてて何考えてるかわかんないところあるし、凛も下ネタばっか言うし不器用だけど、基本的に二人ともひたむきだし、純粋だ。「しっかり者だけどさびしがり屋」と「おてんばで天才肌」っておっさんが言ってたけど、あれは正しい。二人の性格を適切に表現している。
 俺、そもそも女友達がめちゃくちゃ少ないから、どういう性格の女の子がいるのかとかそう言うの良くわからない。友達と言って良いのは、柚木と、凛と、中学校の時一緒にバンドしてた華菜、あと大嶋さんくらいかな。大嶋さんのバンドメンバーとか、橋本さんとか、普通に話す人はいるけど、友達と言っていいかどうかは微妙な間柄だ。
 でもどうだろう。もしも、柚木がいなかったとしたら。もしも、仮に、柚木のことがなくて、あの日、酔っぱらった凛から「好き」だと言われたら。俺はどうしていただろうか。
 ――俺は、凛にどう答えていただろうか。
「んなもん分かるかぁ……」
 思わず声が出てしまった。
 慌てて辺りを見渡す。二、三組のカップルと、父と娘の親子連れが視界に入ったが、特に誰かに聞かれた恐れはなさそうだ。俺はほっと胸をなでおろした。危ない危ない。柚木がいなかったとしたら、そもそも柚木がいなけりゃバンドもやってないし、凛とも出会ってなかったはずだ。ただ……あれ?
 ひとり言が聞かれなかったか周囲を確認した時、拍子に視界に見知った影が見えたような気がする。もう一度目を凝らして辺りを見ると、少し離れたところで、身長180センチくらいの大男と、150センチを切ったくらいの小さな女の子が、波打ち際で水切りをしているのが見えた。男の方が6回くらいバウンドさせたのを見て、女の子が手を叩いて喜んでいる。あれ、哲平じゃないか。目を凝らして女の子の方をみると、どうやらなっちゃんのようだ。髪型がポニーテールで、いつもと違うかったからわかんなかったけど。
 何となく見つかっちゃいけないような気がして、木の陰に隠れてからもう一度様子を窺った。哲平があそこまで安らかな顔してるの初めて見たかもしれない。いつもは対抗している組の奴らを三人いくらい殺してきたヤクザみたいな顔してるのに。
 デートかな。いや、というか状況から見てデート以外の何ものでもない。俺の知らない間にあの二人、仲良くなってたんだ。そう言えばなっちゃん、少し前にファミレスでデートしたとか言ってたしな。もう付き合ってるのだろうか。いや、でも付き合い始めたとしたら大嶋さん辺りから情報が入りそうだよな。あの人絶対面白がって吹聴するだろうし。
「あの二人、仲良いよね、もう付き合ってるのかな」
「いやぁ、まだじゃないかな。付き合ってるとすれば大嶋さんあたりから情報が……ヒェェッ!」
 突然後ろから声がして、何の違和感もなく返事したけど、良く考えたらだれか分からない人に話しかけられていた。咄嗟にマヌケな叫び声をあげてしまう。
 後ろを見ると笑いをこらえて顔を風船のように膨らませている凛がいた。
「り……凛か……なんだびっくりした……」
「『ヒェェッ』って。漫画みたいな叫び声挙げて」
「当然だろ……せめて前から来るか声をかけるかしてよ」
「そんなことしたら覗き見してるのてっちゃんにばれちゃうじゃない」
 凛はそう言って、俺と同じように木陰から哲平たちの方をのぞきながら、しゃがんでいる俺の頭の上に顎を載せた。顎が頭蓋に突き刺さって痛い。
「哲平、すごい安らかな顔してると思わない?」
「うん、見たことない顔してるね……任侠の世界にいた男を愛が変えたんだね……」
「Vシネみたいだな」
 そしてその流れだとなっちゃんが殺されて哲平が復讐の鬼になる感じだな。
「っていうかしゅーくん、来るの早いじゃない。集合まであと1時間くらいはあるよ」
「いいだろ。暇だったんだ。凛も早いじゃないか」
「私はお祭り的なサムシングを食べに来たのです」
 なんだよ、お祭り的なサムシングって。だがそう言おうと思った瞬間、凛は俺が手に持っていたかき氷を奪って凄い勢いで食べ始めた。
「おい、俺のかき氷を……」
「ええやん減るもんやあらへんねんし!」
「いや減るものだからな!」
「う、むぅぅぅ! 頭に、来た……」
 凛が顔をしかめて唸り声を上げた。ほら急いで食べるから。しかしここでこんな風に騒いでたら哲平にばれそうだな。横目で確認したが二人は水切りに夢中で全然気が付いていないようだった。二人だけの世界って感じだ……仲良きことは良きことかな。
 俺は立ち上がって、凛からかき氷を取り上げた。
「な、凛。哲平となっちゃん、ふたりきりにしておいてあげよう……集合時間までどっかで時間つぶそう」
「う、うむぅ……」
 まだ顔をしかめている凛を引きずるようにして人ごみの中にまた戻った。




「むー! うまい! 安っぽい業務用ソース最高!」
「凛、あんまり大声でそういうこと言わないで」
 凛がお好み焼きを頬張りながら大声でヘイトを撒き散らすので、俺は慌てて口もとに人差し指を当てた。
 お祭りっぽいサムシングを食べたいという凛の提案に従って適当な屋台で色々買って、その辺りにあったテーブルと椅子が設置されたスペースで食べていた。そう言えばゴロゴロしているうちに昼ご飯を食べるのを忘れていたので、俺もお腹が減っていたのだ。お好み焼きと焼きそばと水あめ。確かにお祭りの屋台の安っぽい味なんだけど、こういうのは気分が大事なのだ。
 凛は口の周りにソースをつけながら、何が面白いのか遠くの方を見てケラケラ笑っていた。俺がティッシュを渡すと、口の周りを拭きながら話しかけてきた。
「なんか去年を思い出すね。去年はライブ前にたこ焼き食べたんだっけ?」
「そうだったな。去年はライブがあったから、十分に満喫できなかったけど」
「ねぇ、満喫って言葉の響き……エロくない?」
「気のせいだろ」
 そう言ったのに、凛は「マンキツ、マンキツ!」と繰り返すので、俺は無視して遠くの方を眺めた。
 少し遠くの方にお化け屋敷の看板が見えた。看板にでかでかと血文字のような字体で、『去年より怖くなってます』と書いてある。お化け屋敷が大好きな俺は、その看板を見た瞬間ワクワクしてきた。そう言えば去年も入ったな。去年はがっかりの内容だったけど、去年と内容を刷新したのなら……。
「なぁ、凛」
「ダメ」
 凛は今の今まで狂ったように下ネタを連呼していたのに、突然満面の笑みになって黙り込んだ。どうやら俺の視線を読んでいたらしい。
「まだ何も言ってないだろ?」
「お化け屋敷はダメ」
「まだ集合までちょっと時間があるから……」
「ダメなもんはダメ!」
「ほら、あの看板見てみろよ。『去年より怖くなりました』だってよ! 気にならない?」
「仮に気になったとしても、去年より怖くなったのなら行くインセンティブは明らかに下がるよね」
 クソ。いつもは下ネタ関連の語彙しか振り回さないくせに、こんな時だけ難しいことばを使いやがって……そうだ。
「凛」
「なによ」
「俺は口が堅い……」
「え、何の話?」
「でもうっかり滑ることもある……」
 俺はそう言ってニヤリと笑った。凛はきょとんとしていたが、何のことを言っているのか気づいたらしく、突然慌てだした。
「……ず、ずるいぞ! あれは秘密にしといてっていったじゃない!」
「いや、まだお前のバイトの件を君のお父上と学校にお伝えするなんてなんて言ってないぞ。ただ、お化け屋敷に行かないと口が滑りやすくなるんじゃないかなと思って……」
「い、意味が分からない。一人で行けばいいじゃない!」
「だって一人で行くの怖いじゃん」
「むー! 怖いなら行かなきゃいいのに!
「怖いのを数人で楽しむのがいいんじゃないか!」
 俺がそう言って笑うと、凛は「むー」といって黙り込んだ。それから迷っているのか、こめかみをぴくぴくさせたり、眉を寄せたり、目をより目にしたり、めまぐるしく顔面を動かした後、突然真顔になった。
「わかった。覚悟を決めましょう……」
「おおっ、流石一之瀬さん!」
「ただし代金はしゅーくん持ち、あと今後バイトのこと使って私に脅しをかけた場合、『桂木鷲は短小で包茎で早漏』っていう噂をあたりかまわず流すからね!」
「それは嫌だな……というかその噂流したとして、なんで凛はそれを知ってるんだという話になりそうだけど」
「とにかく行くぞ! 行くと決めたからには行く!」
 そう言って凛は勢いよく立ち上がったが、立ち上がった拍子にテーブルで足を打ち、うめき声をあげて痛そうな顔をした。俺は立ち上がり、食べ物のごみなどをまとめて近くにあったゴミ箱に投げ込んだ。凛は痛そうにフラフラしているので、俺は手を引いてお化け屋敷に向った。気が変わったらいけない。
 とにかく、そんなわけで、俺たちは集合時間までの時間つぶしにお化け屋敷に行くことになった。行くと決めたくせに、お金を払って入口まで行った途端に凛は抵抗しはじめたが、俺は凛の耳を引っ張って暗闇の中に脚を踏み入れた。


(後編へ続く)



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