▼16/01/23更新分から読む


Episode36: 褒めて出るのはフラグだけ




 八月。夏休みも半ばだ。
 俺は蝉の声を聞きながら駅前で人を待っていた。暑い。ひたすらに暑い。日陰にいても太陽光がコンクリで反射して俺の体を熱してくる。あまり汗をかかない体質の俺は体の中に熱がこもるので大変だ。さっき買ったお茶をがぶ飲みし、持ってきたハンカチをうちわにして仰ぎながら周囲を見てみると、行きかう人も暑さで苦しんでいる。うーむ。これだけ暑ければ誰かに嫌味とか言ってもいいと思うんだけどな。主に暑くない地域の人に。
 そうまでして俺が誰を待っているかと言うと、これが女の子なのである。どうせ柚木か凛だろって? いやそれが違うんですよ……どうでしょうこのリア充感! 彼女でもバンドメンバーでもない女の子と待ち合わせ! 去年の俺からは考えられないリアルの充実っぷりだ。さて、誰でしょう?!
「ごめん、お待たせ」
「暑かったよ……」
「涼しいとこで待ってくれれば良かったのにゥフフフ」
「そうかその手があったか」
「桂木君、そういうとこ抜けてるよね、ゥフフフ」
 というわけで答えは大嶋さんでした! と言っても別にデートでも何でもなく、秋以降の軽音部の運営に関する打ち合わせで、他の運営メンバーである福井君と河野さんもいるんだけどね。浮気的なアレでは無いので皆さん誤解なきよう。ってか誰に向かって言ってるんだこれ。
 大嶋さんは、青いシャツに白いふわっとしたスカートで目の前に立っていた。いかにも夏らしい格好だな。部屋着でフラフラ人の部屋に入ってくる柚木や、いつ行ってもジャージかTシャツしか着てない凛に見せてやりたい。これが女の子なんだぞってな。
 俺がまじまじと見ていると大嶋さんは少し顔を赤らめた。
「なに? ……服装、変かな?」
「いや、良く似合ってると思うよ。可愛いし」
「ありがと……でも褒めても何にも出ないよ」
 そう言って大嶋さんは顔を逸らした。ほらこれが恥じらいだ。人前で腹だのケツだのをぼりぼりと書いている柚木や凛に見せてやりたい。これが女の子なんだぞってな。いや、というか俺が男扱いされてないだけではないかという一抹の不安がよぎったが、とりあえず今は考えないことにした。
「さっき連絡来てたけど、二人は遅れてくるから先ファミレス入っといてって」
「私も見た。じゃあいこっか」
 そう言って大嶋さんが歩き出したので、俺はそれを追いかけるようにして歩き出した。目的地は駅前から少しだけいった所にあるファミレス。良く考えたら現地集合にした方が暑くなくて済んだな……これはミスだった。
「そういえば桂木君、久しぶりだね。元気だった?」
「あ、うん、そこそこには」
 俺は自分の体の各部分に異常がないか尋ねてから大嶋さんに返事した。夏フェスに行った次の日は日焼けと筋肉痛で一日中全身がいたかったけど、今は大丈夫だ。あの日は柚木につつきまわされて大変だった。
「私は夏風邪ひいて大変だったな……先週はずっと寝込んでたの」
「大丈夫なの?」
「うん、まあ今は。桂木君は何してたの」
「先週はね……夏フェス行ってきた」
「うわっ、レフトオーバーズのみんなで行くって言ってたね。どうだった?」
「うん。とにかく最高だったよ」
 咄嗟に聞かれてそんな風にしか説明できない自分の語彙力は本当に最低だと思う。大嶋さんが「それだけ?」って顔をしたので、俺は慌てて説明を付け加えた。
「ホルモンとか、エックスジャパンとか、レッチリとか見たんだ……とにかくレッチリのライブが想像以上にすごくてさ、三人で圧倒されて、帰ってからすごくモチベーション上がって、先週から曲決めて三人で文化祭の練習してる」
「ゥフフフ、それはちょっと早いね」
「次の文化祭でミューズをやることになってね」
「へぇ……?」
 大嶋さんが知らないというような顔をしたので俺はいったん言葉を切った。けしからん。最近の若者はミューズも知らんと言うのか。といっても俺も真剣に聞き始めたのはごく最近なんだけど。
「イギリスのスリーピースロックバンドだよ。哲平がなんか最近ハマったとかでやりたがってさ」
「ふぅん。難しいの?」
「まあめちゃくちゃ難しいんだけど、時間あるし、何とかできないかと言う希望的観測球を打ち上げている」
 今練習している曲を想像しながら答えた。ベースは指弾きにしては滅茶苦茶速いし弦飛びが多いので弾き辛い。だが一番の問題は凛パートだ……ギター弾きながらどうやって歌うんだというフレーズが滅茶苦茶多いし、歌も滅茶苦茶難しい。まあ凛ならなんとかしてくれそうではあるが……。
 そうやって話している間にファミレスについた。そう言えばここ、いつだったか、レフトオーバーズとエレクトリックガールズ(つまり大嶋さんのバンド)のメンバーとで来たな。確かクリスマスの頃だっけか。
 ドアを開けるとクーラーの冷気が一気に体に吸い付いてくる。上がった体温が急激に冷え、一気に汗がひく。
「ふぅ……生き返るな……」
「ちょっと寒いくらいだね」
 俺たち二人が着た途端店員さんが駆けつけてくる。
「しゅっ……いらっしゃいませ! おタバコおすいになられますか?」
 ん? いまなんか変な音聞こえなかったか? 俺は顔をしかめて耳に聞こえた音を反芻したが、なんて聞こえたか正確に思い出せなかった。なんとなく今名前を呼ばれたような気がしたんだけど。
「いえ。吸いません」
「ではあちらの窓際の席にどうぞ!」
 店員に促されるまま俺は窓際の席に向った。だが大嶋さんがついてこない。
「大嶋さん。来ないの?」
「ああ、うん」
 俺が無遠慮にも先に席に座ると、大嶋さんはすっと向かいの席に座った。俺が荷物を下ろしてメニュー表を開けようとしていると、大嶋さんが小声で話しかけてきた。
「桂木君、今の店員さん、一之瀬さんじゃなかった?」
「えっ?!」
 思わず大きな声が出てしまい、周りの客に睨まれてしまった。すいません、と心の中で謝っておいた。
「いや、桂木君が全然気づいてないみたいだったから、違う人なのかと思ったんだけど。それに髪型が違うし、背も高かったような気がしたから……お姉さんとか、親戚とかかな」
「親戚は知らないけど、確か一人っ子のはずだけど……」
 俺はそう言いながらきょろきょろと辺りを見渡した。生憎それらしき人物はいない。キッチンに引っ込んだんだろうか。でもフロアのバイトならそのうち出てくるはずだ。
「いや、仮に凛だとして、何でここに?」
「何でって……バイトでしょ?」
 動揺しすぎて間抜けな質問をしてしまった。そりゃそうだよな。バイトじゃなかったら店員の格好をしてこんなところにいるはずないよ。そんな俺に対して何バカなこと言ってるんだこの人はと言わんばかりのジト目で大嶋さんは俺を見つめる。うっ……やめて……なんか悪いことした気分になってくるじゃない!
「うちの高校ってバイトするのオッケーだったっけ?」
「一応ダメなんだけど、特別な理由のある人は……例えば家のお金が少ない人とかは、許可を取ればできるらしいよ。でも黙ってやってる人も結構聞くな……」
「そういう情報を大嶋さんは何処から仕入れてるんですか?」
「え? 友達とかから」
 当然のように答える大嶋さんに、俺は眩しいものを見たような気になった。おぉ……「友達とかから」って俺も言ってみてぇ。中学の頃と違って、最近は友達ゼロという状況を脱したが、そこまで広い層の友達がいないのでそんな情報入ってこない。
「いやぁ、でもあの社会性皆無の一之瀬凛がバイトなんてしてるはずないでしょ……」
「ご注文はお決まりですかっ?!」
 突然怒鳴るようにして大きな声で店員さんに話しかけられたので俺はびくっとしてメニューを取った。いや、食べに来たわけじゃなくて駄弁りに来たわけだからドリンクバーだけでいいんだけど。
 ふと店員の顔を見る。営業スマイルでニコニコとこちらを見ている。ポニーテールで、ウェイトレス風の制服を着ているが、顔だちは良く見る顔と言うか、つい昨日も見たような……。
「凛、だよな?」
「ご、ご注文はお決まりですか?」
「一之瀬凛だよな?」
「ご注文はお決まりですか!」
 店員の営業スマイルがヒクついている。いやどう見ても凛だし、仮に凛じゃなかったとしたら「違います」っていうよな。ここはひとつ凛(仮)としておこう。
「あ、じゃあ、ドリンクバー……大嶋さんもそれでいい?」
「あ、うん。ドリンクバー、二つで」
 大嶋さんに問いかけると、彼女は鞄の中から部活用の資料を出しながらそう答えた。それを聞くと凛(仮)は頷いて注文用の端末を弄り、そして勢いをつけて次のように述べた。
「ではあちらにサーバーとコップ等ございますのでご自由におちゅかいください!」
「……噛んだ」
「お使いください!」
 そして凛(仮)は走り去るようにして去って言った。何だあいつ。何で隠そうとしてるんだろう。凛が消えていった方向をじっと見つめていると、大嶋さんが笑いをこらえるようにして小声で話しかけていた。
「一之瀬さんだったよね」
「ああ、だよね。ツインテールのイメージが強すぎて気づかなかったけど凛だよな。なんで隠そうとしてるんだろう」
「ゥフフ、っていうか、あれで隠せてると思ってるのかな?」
 だよな。隠そうとして焦って余計に「一之瀬凛」らしさを露呈しているということに早く気付いた方が良い。
「大嶋さん、飲み物、とってくるよ。何がいい?」
「うーん、とりあえず、アイスティーで。ミルクとシロップは要らない」
「オッケー。資料の準備とか、お願い」
 そう言って俺は席を立ち、ドリンクバーコーナーに行った。運良く、と言っていいのだろうか。凛(仮)がドリンクバーコーナーでコップを補充していたので、冷かしてやることにした。
「おい凛」
「なにしゅー……いや、なにかご用でしょうか?」
「……セッ!」
「クス! あ、しまった!」
 引っかかるかなと思ってやってみたら見事に引っかかった。忍者のあいことばみたいだな。「海!」、「山!」みたいな奴。
「観念しろ。完全にばれてるぞ……」
「むー……ついにバレたか……」
 凛は両手を天に向けてあげた。
「絶対他の人には言わないでね?! お父さんにも、学校にも、無断でやってるから……」
「なるほど。まかせろ。桂木鷲は大変口が堅く、義に厚く情が深い男だ」
「むー……胡散臭い……」
「まぁ大嶋さんには上手く説明しておいてやるよ」
 俺がそう言って含み笑いをしていると、凛は「むー」と呟くように不満の声を漏らした。そうしながらも凛は手際よくコップを次々に補充していく。俺は凛がセットした新しいコップを取り上げ、アイスティーを入れた。
「手際、慣れてるな。働いて、長いのか?」
「うん。実はね。夏くらいから少しずつ入ってたの」
「へぇ……なんのために」
「ちょっと欲しいものがあって……お年玉とお小遣いの貯金だとダメで、もう少しお金が無いと変えないから……」
 なんだろう。楽器とかかな。でも凛は父親のエリック・クラプトンモデルのストラトという滅茶苦茶良いギター使ってるし、楽器に不満なんてあるのか? エフェクターとかかな。
「しゅーくんこそ、ゆーちゃんと二人で、こんな遠くまで何しに来たの」
「お前もゆーちゃんって呼ぶのか」
「え、だってなっちゃんがそう呼んでたから」
 凛はコップの入っていた大きなプラスチック製のケースを動かしながら、そう答えた。確かなっちゃんしかその呼び方しないって言ってたような気がする。仲間が増えてよかったな、なっちゃん。ちなみになっちゃんは大嶋さんと同じバンドのベースの子だ。様々な事情を鑑みてここで解説を入れておいた。
 それから俺は自分の分のアイスコーヒーを注ぎながら、凛の問いに答えた。
「軽音部の後期のイベントに関する会議。大まかな予定の確認と、引き継ぎ資料の検討と、その他もろもろ。河野さんと福井くん……つまり会計と書記も来るぞ」
「なんだデートかと」
「ちがいますぅー」
 そうだったらどんなによかったかとまで考えた所で止めた。柚木が助走をつけて殴ってきそうな気配がしたからだ。きっと隣に居たらすごいグーパンを喰らってるだろうな……ここにいないのに柚木の(暴力の)ことを考えてしまう……これが恋って奴だな……。違うか。
 それに大嶋さんみたいにいい人は俺には釣り合わない。そんなこと言ったら柚木も俺と釣り合ってない気がするけどアレだな。そう言うこと言い出すと俺は誰とも付き合ってはいけない感じになるな。
「他の二人ももうすぐ来るから、バレたくなければ近づかない方が良いぞ」
「ありがと。助かる」
 そう言って凛がニッコリと笑った。これはさっきの営業スマイルとは違うな。そう思ってから凛の顔をじっと見ると、うっすらとチークやアイシャドーが見える。
「凛、化粧もしてるのか」
「変装の一環なんだ……このためだけに女の子雑誌とか買って練習したの。いつもすっぴんだから逆に分かりにくいかなぁと思って」
「確かに見た目はパッと見では分からなかったな……ツインテールのイメージが強いから、ポニーテールだと一気に印象が変わるというか……あとヒールも履いてるな」
「そう、私は変幻自在の女……この姿も数ある姿の一つでしかないの……」
「誰だよ」
 俺はそう言って笑った。そしてちょっとだけ安心した。いつまでも下ネタ変態女だと思っていた凛が、突如として大人っぽい姿で現れたので俺は少し不安な気持ちになっていたのだが、仮面をかぶっただけで対して中身が変わっていないことに少し安心したのだ。
「邪魔しちゃ悪いからそろそろ戻るわ」
「うん、ごゆっくり」
「あ、あと凛……ポニーテールも、似合うな」
「ふぇっ?!……ほ、褒めてもなんも出ないよ!」
 俺が正直に褒めると、凛は正直に恥ずかしがった。なんかさっきもこういうやり取りしたな。まあいいけど。
 しかしこれで凛の新たな弱みを掴んだ。どこかでこれを有効活用しないとな……黒桂木鷲の再誕である……。



 話し合いが終わったのは夜だった。
 話し合いと言ってもかなりの時間駄弁ってたのであれだけど。でもとりあえず文化祭の予定なんかは決まった。毎回要らない机とかを組み合わせてロープで縛って野外ステージを作ってるんだけど、意外と面倒だということが分かった……うちの部活、人数は異様に多いのでマンパワーはあるから何とかなるだろうけど、今年は俺たちが運営の立場だし、クラスの出し物の準備とかとダブらないようにしないとな。
 俺は大嶋さん、河野さん、福井くんを残して先に帰ることにした。三人はまだ昨日のドラマの話で話し込んでいたが、俺はなんとなく疲れた(というかそのドラマ見てなくて全く話が分からなかった。)ので早く帰りたかった。帰り際に凛が見えたので手を小さく振ると、凛も右手の親指と人差し指で丸を作り、その間に左手の人差し指を出したり入れたりしていた。後で殴ろう。
 店を出た。夜になると暑さも少し緩まったみたいだ。頬をくすぐる海風が心地よい。俺は電車代を浮かすために歩いて帰ることにした。歩くって言っても一駅分くらいだから二十分くらいで済むはずだ。歩く時、普段は音楽を聴きながら歩いているんだけど、今日はイヤホンを忘れてしまったのだ。耳を澄ませば街の音が聞こえる。車の音、人の声、風の音、木が揺れる音。
 明日は海浜公園の夏祭りだ……つまり、柚木たちのバンドのライブがある。当然俺は観に行くことになっている。せっかくなので凛や哲平も誘っておいた。去年は俺たちがライブをやった去年の今日の夜は、あんなでかいステージでやるの怖いなと思って緊張しまくっていた記憶がある。しかしあれだ。見る側だと全然緊張しなくて済むな。
 柚木は今日帰りが遅くなると言っていた。きっと最後の練習があるのだろう。俺らは去年意味も無く朝っぱらから何時間も練習したりしてたな。
 去年の夏のことを思い出しながらぼんやり歩いていると、思ってたより早く俺の家である居酒屋「どっこい」の間抜けな看板が見えてきた。なんだ、思ったより近いんだな。店の扉を開けると、いつものように出汁と煙草と酒の匂いとスピーカーから流れるギターの音が俺を襲ってきた。今夜のBGMはパール・ジャムだ……なんて曲かは忘れたけど。
「ただいま」
「おう、おかえり」
「なんか食べるものある?」
「待ってろその辺の生ごみを炒めてやる」
「せめて食べれるものにしてくれ……」
 帰ってそうそう親父から酷い待遇を受ける。まあいつものことだけど。
 今日はなぜか客が少ない。小さい居酒屋とはいえ先代からの常連が多いのでいつもなら半分くらいは席が埋まってるのに、カウンター席に母と、もう一人お客さんが座っているだけだ。俺は座敷に荷物を投げて、お客さんから一つ席を開けてカウンター席に腰かけた。
「鷲くん久しぶりぃ。元気してた? いつみてもマヌケな顔してんなぁ……」
「うるせぇ失礼な。誰がマヌケ……って」
 普通に親父だと思ってリアクションしたら、隣に座っていた人だった。この場で俺に対して失礼な罵詈雑言を投げてくるのは父だけだと思っていたが、もう一人だけいたな……。
「柚木のおっさん」
「おっさんとはなんだ。まだまだ俺はピチピチのギンギンだぞ?」
「あ、そういうのいいです」
「冷たいなぁ……モテないぞぉ?」
 柚木の父親にして、変態超絶ギタリスト一之瀬凛を育てた、実力は一流のギタリスト、神川隆が、うちの居酒屋のカウンターに座っていた。長身にボサボサの髪、無精ひげのようなあごひげ。服装はアロハシャツに、短パン。夏真っ盛りな格好だ。しかいこの人初めて見た時から全然見た目変わんないよなぁ……大学生だって言われてもわりと迷うくらいには若く見える。
「しばらく来てなかったですね。お忙しかったんですか?」
「まあ色々と仕事があって。最近ギタリストとしての仕事が多くて嬉しいよ」
「柚木は、今日は……」
「聞いたよ。明日ライブだってね。ひっさしぶりに我が愛娘と飯を食おうと思ってきたのに寂しぃ~」
 それにしてもこのおっさん、ノリノリである。
「ライブ前、最後の練習だそうですよ。明日来られるんですか?」
「うむ。柚木から連絡来てたからスケジュール開けといたんだ……ってか話しにくいな。隣に来いよ」
 そう言われたので俺は隣に寄ろうかと思って立ち上がったが、思い直して俺は携帯を取り出した。履歴を遡り、目当ての電話番号を見つける。
「隣に居るなら男より女の子の方が良いんじゃないですか?」
「え、なに、呼んでくれるの? Cカップ以上ね?」
「殺すぞ」
「こら、鷲、お客さんにそんなこと言うんじゃないの」
「母さん、今の会話の流れ聞いてた?」
 おっさんがナチュラルに下ネタをぶち込んできたので、俺は反射で怒鳴ってしまった。そう言えば凛、最近なんだか胸が大きくなってきたような気がするのでCカップくらいいってるかも……とまで考えたところで止めた。俺の人間としての尊厳がこの一瞬でそれが急速に落ちたような気がした。
 電話をかけると四コールくらいで出てくれた。
『も、もしもし? しゅーくん? バイト上がったところだったんだけど、どうしたの? いきなり』
「あ、ちょうどよかった。今からウチ、来れる?」
『え……へっ?』
 凛は電話越しにマヌケな声をあげた。
「いいから、来いよ。面白いものが見れるぞ」



 数十分後、居酒屋「どっこい」の扉があいた。
 凛が現れた。デニムのショートパンツに白いシャツ、上に薄い緑色のシャツを羽織っている。髪型はいつものツインテールに戻っていた。うん、ポニーテールも可愛かったけどやっぱ凛はツインテールじゃないとな。
「お、おじゃましま……おっさん!」
 凛は大声を上げた。人がいない居酒屋の中に凛の声が反響する。
「おお! しゅーくんが呼んでくれたデリ嬢って凛のことだったのか!」
「デリヘルだなんて一言も言ってねェ!」
 ナチュラルに下衆なことを言うのでヒヤッとしたが凛は別に動じていない。そりゃそうか。凛に下ネタを立叩きこんだのもオッサンだったらしいからな。
 おっさんが手に持っていたグラスをカウンターにおいて椅子から立ち上がったので、凛は小走りでまっすぐ歩いて行っておっさんに抱きついた……感動の子弟の再会である。そうだよな……会うの久しぶりだもんな……。俺は暖かいものを見るような目で見ていたのだが、おっさんがナチュラルに凛の胸を揉もうとしていたので、俺はテーブルにある水をおっさんの頭にぶっかけた。
「プハッ! 何しやがる!」
「ナチュラルに胸を揉もうとするな!」
「おい鷲、うちの大事な常連客に……」
「ややこしいから親父は入ってくんな!」
「私もちょっとかかった……しゅーくんにぶっかけられたぁ!」
「お前は平然と誤解を誘うような発言をするな!!」
「むー……ねぇ知ってる? 亜鉛を飲むと精液の量が増えるんだよ!」
「知らないよ!」
「おじさん一時期毎日飲んでたよ!」
「知るか!!!!」
 俺はそう叫んでから、膝に手をついて深呼吸した。俺は断続的なボケの連鎖に、格闘ゲームのコンボ技のごとく次々と突っ込まされた。うっ、下ネタの子弟が集まるとこうも大変なのか。そしてさっきから視界の端に見える、息子の頑張る姿を見て、腹を抱えて大爆笑している母よ。この場における常識人は俺を除けばあなただけなんだ。助けてくれよ。
「凛、こないだ見た時より胸大きくなった気がするな。成長期って凄いな……」
「そうなんですよ! その件に関しておっさんに報告したい超HOTな情報が!」
「ほう」
「この前、初めて下着屋さんでちゃんとサイズを測ってもらったんですよ!」
「ほうそれで」
 ぜぇぜぇ言ってたせいでこの一連の流れに突っ込めなかったから、心の中で突っ込む。何だこいつら……気が狂っているようにしか見えない……。
「これまで自分で鏡で見た目分量でB65を買ってたんですよ……でも測ってもらったらなんとD70……そう、なんと私はDカップ!」
「おお!!よくやったぞ凛!!小さい頃から育てた甲斐があった!!!」
「えへへへへ!」
 えへへじゃねぇよ。うっ……もうなんか疲れた……。俺は元に座っていた席に座った。確か大晦日にも似たようなやり取りしたの思い出した。どうしてこの空間には俺しかツッコミ役がいないんだ。俺にハードタスクを課して何が楽しんだゴッドよ……。
「しゅーくん、欲情したでしょ?」
「してねぇよ。俺をその変態クラスタのトークに巻き込むんじゃない」
 俺がそう言うと、凛は「つまんないなぁ」と言いながら俺の隣に腰かけた。つまんなくないよ。俺の精神衛生、大事だよ。それと同時に親父がおでんを俺たちの前に出してくれた。お腹が減ったので黙って大根をついばんでいると、親父が俺に小声で話しかけてきた。
「鷲、神川さんと凛ちゃんはどういう関係なんだ」
「師弟関係。昔公園で凛にギターを叩きこんだんだって」
「へぇー……つまり柚木ちゃんのお父さんであり、凛ちゃんの師匠と言うわけになるのか」
「そうだ。俺は凄い」
 おっさんは元の席に戻りながら深い声でそう言った。凄いのかどうか微妙なところあるけどな。凛をここまでのギタリストにしたことは間違いないのだが、見た目に似つかわしくない変態に仕立て上げたのもはどう考えても罪深い。
「凄いと言えばおっさん、こないだおっさんのライブ見たよ」
「え、マジで? どれ?」
「サマパニの」
「うそーん、見てたのぉ~? おじさん恥ずかしぃ~」
「しらばっくれんなよ」
 妙にカマっぽい口調でイラッとしたので、俺は凛とおっさんの会話に割って入った。
「凛の父親経由でチケット渡したの、おっさんだろ」
「うわっ、バレた?」
「ライブ出てた時に柚木のおっさんイコール凛の師匠であることが分かったんだけど、その時にわかったんだよ。それに、タダで三枚もチケットくれるような気前いい人、他に考え付かなかった」
「褒めないでよぉ~。褒めて出るのはフラグだけだぉ~?」
 心底気持ち悪い。
「いや、俺のライブ見てるとは思ってなかったけどな。凛もレッチリみたいだろうなと思って。それに確かスリーピースバンドやってるって言ってたから、みんなで来たらいいじゃんと思って三枚用意したんだよ」
「おっさん、ありがとう……レッチリも、おっさんのギターも、最高だったよ」
「凛が素直で嬉しい。泣きそう」
 俺はこんな素直な凛を見たことが無いので逆に気持ち悪い。というかおっさんも気持ち悪いし、なんだこれ。気持ち悪い。
「しかし『しゅーくん』って鷲くんのことだったのか」
「何ですかそれ」
「いや、確か去年凛に会った時……」
「わーわーわーわーわー!!」
 親父から渡されたおでんをむさぼっていた突然凛が騒ぎ出した。ああ、去年俺と凛が喧嘩してた頃に会ったって言ってたな。あんまり突っ込むとダメな気がしたけど、気になって対反射で聞いてしま他。
「俺のいないとこで俺のことなんて言ってたんですか」
「むー!! むー!!」
「え、覚えてないけど確かヘタレチンポとかそういう話だった気が」
「むー……あながち間違えてないけど……」
「あながちってなんかエロいよね」
 エロくねえよ。確か以前凛も同じこと言ってたような気がするが……やはり凛の下ネタの師匠であるということを実感してしまう。思考スタイルが完全に一緒だ。この人たち。
 俺の心労など何も気にしていないと言わんばかりの優雅な手つきで、杏露酒でゆっくり唇を湿らせてから、おっさんはまた口を開いた。
「そうだ、思い出した……お前ら、あの頃確か、喧嘩してたんだろ?」
「まぁ……喧嘩っていうか」
「ちょっと私が癇癪おこしちゃっただけだから……その節はその……」
「いや、俺も悪かったよ……」
「まぁまぁまぁいいじゃないか元鞘に戻ったんだから」
「その言い方はおかしい」
 それだと俺たちが付き合ってたみたいじゃないか。
「いやあ、こんな見た目だからあんまりそう見えないけど、俺、結構長く生きてんじゃん?」
「見た目に関する自覚があったのか」
「長いこと生きてるとわかるんだけど、ぶっ壊れるともう二度と元に戻らない人間関係ってのもあるのよ……」
 そう言ってからおっさんは残っていた杏露酒を飲み干し、中身が氷だけになったグラスをカランカランと鳴らした。その音が鼓膜の奥で反響する。
「……柚木の母親のことですか?」
「鷲くん、わかってても言っちゃいけないことってのがあるんだよ」
「ごめんなさい」
 言ってしまってからしまったと思ったが、たしなめられてしまった。俺がすぐに謝ると「いいよいいよ」とおっさんは呟いて笑みを浮かべた。凛はただ黙っておっさんを見ていた。
「柚木の母親……理子は、もう顔も合わせてくれない。離婚した当初は俺も不安定でお金が無かったから、仕方なく親権を譲ったんだけど、ほんとは俺が柚木が大きくなるのを見てやりたかった……俺は、父親失格だ……」
「おっさん……」
 凛が呟いた。おっさんが珍しくしんみりとしている。俺は空気に耐えきれなくなって、違う話に切り蹴ることにした。
「そう言えば、凛と初めてあった頃、どうしてたんですか?」
「あの頃……離婚してからこの辺りには近づけなかったけど、できるだけ近くに住みたいと思って。すこし離れたところに住んでたんだ。暇なときは公園でギターの練習をしていたんだけど、その時に近寄ってきたガキが凛だったんだ」
「そうだったんだ……」
 凛がそう言うと、おっさんはゆっくりと頷いた。
「今から思えば凛は、娘代わりだった気がするな。大きくなった娘とこういうことしたかったってことを全部やったよ。ギターも、下らない話も……」
「下ネタの調教も?」
「それは凛の反応が良かったからつい」
「わたしのせい?!」
 凛が不満そうな声を挙げたので、おっさんは片手を凛の頭の上に乗せた。わしゃわしゃと強引に頭を撫でられた凛は、顔を膨らませて黙った。
「楽しかったよ……丁度あの頃くらいから少し仕事が忙しくなってきて、暫く公園に行けなくなってしまったんだけど、それから凛は来なくなったな」
「もう来なくなったのかと思って……ごめんなさい」
「いや、また会えたからそれでいいんだよ」
 そう言っておっさんはまた凛の頭をこねくり回した。俺は自分の手の甲を見つめながら、おっさんの生涯に思いを馳せた。これだけギターが上手くて、人懐っこい人でも、ミュージシャンとして稼げるようになるまでとても時間がかかったのか……夢をかなえるために、どれだけ多くのものを失ったんだろう。
「いいか、お前ら、会って、仲良くなった人は大事にしろ。会えただけでも奇跡的なことなんだからな」
「クサいな」
「酒を飲んだ時はクサいことを言っていいんだよ」
 そう言っておっさんは、ただただ乾いた笑い声をあげた。






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