15/06/26更新分から読む


Episode31: ただもうそれだけで




 久しぶりにステージ上に立つと、多くの人がこちらを見上げているのが見えた。
 照明の熱気が頬を焼く。緊張で冷え切った指がベースの体温を感じる。体温。体温か。不思議な言葉だな。まるでベースが生き物のような気がして来た。今まで何度もライブをしてきた。こうやってベースを握ってステージの上に立つのは何度目だろう。でも何度経験してもこの感覚にはなれなかった。
 ステージの下を見つめるとたくさんの人がいる。四、五十人くらいだろうか。壁際の方に目をやると柚木が壁にもたれかかってこちらを見ていた。
「なんか人多くない?」
「トリだから人が集まるのかな」
 凛がチューニングを終えてこちらに振り向き、のんきな声で俺に話かけてきたので、俺は返事をした。声が凍っていて上手くいつも通りの声が出なかった。何回やってもライブ前は緊張する。ほら俺チキンだから。その様子を見て凛は小さく笑った。
「ま、何人いようが何番目だろうが関係ないけどね」
 去年は自分もガタガタになってたくせにと思ったが言わなかった。三人で顔を見合わせる。凛は小さな声で「行くよ」と呟き、俺と哲平が頷く。
 哲平がカウントし、凛のブリッジミュートと俺のルートの刻みが始まる。一曲目。ランクヘッドの「プルケリマ」だ。もちろんミニアルバム版だ。囁くように優しく、しかし確かな声で凛が歌い始めると、ドラムが並走するように入ってくる。
 単純な構成だが、その中にもしっかりと抑揚をつけ、場面を作り込んでいく。この曲だけでないが、今回のライブの練習に当たって俺たちが特に注意したことだ。自分たちの演奏する音楽の良さを伝えていく。演奏する曲が他人の音楽のコピーやアレンジだとしても、それはインプットの問題であって、アウトプットとしては同じ地平に立てるはずだ。そうだと信じた。
 ラスサビ前で一度一気に下げた後、一気にあげていく。

 傷つけあい、求めあい、笑いあい、許しあったこと
 ありきたりの言葉で満ち足りたこと
 ちっぽけな僕らだったけど確かに息をしていたこと
 全て失くしたとしても忘れないこと

 柚木と俺の好きなバンド、ランクヘッド……二人でCDを擦り切れるほど聞いたな。柚木はこの曲を聞いて喜んでくれるだろうか。演奏しながらそんなことをずっと考えていた。
 曲が終わると一曲目から大きな歓声が沸いた。
『地上のみなさんこんにちはレフトオーバーズでーす』
 凛が間延びしたような間抜けな声であいさつの様な何かをすると歓声と笑い声が起きた。なんだ「地上のみなさん」って。意味は分からなかったが、二年生や三年生の中には凛の固定ファンがいる様で、舞台下は盛り上がっていた。
 凛は少し息をついた後、エフェクターを踏みかえてギターを弾き始めた。ディレイのかかったギターの音が、空間に拡散し反響するように響く。すぐに激しいドラムがなだれ込むように入り、ベースが8ビートを刻み始める。アシッドマンの「ある証明」だ。アシッドマンの代表曲とも言える曲だ。凛があまりに普通にギターボーカルしてるからあんまり意識していなかったが、アシッドマンのギタボってギターも歌も滅茶苦茶難しい。
 メロからサビにかけてエネルギーを増すようにして音楽が上昇していく。サビでは爆発が起きたようにギターが力強いコードを掻き鳴らしながら、その上を歌声が突き抜けていく。凛の表現力と相まって、自分で演奏しているのにぞっとしてしまうほどのエネルギーを感じる。
 クリーントーンでコードが美しく奏でられるソロが終わると、強いコードストロークとドラムの連打が始まる。俺と哲平が暴れまわる様に音符を刻む中、半ば叫ぶように歪んだ凛の声が、力強い歌詞を心臓に突き刺していく。

 絶え間なく流る風
 迫る夜に走る声
 抱えた一つを手に
 未来を描いた

 ラスサビでは抑圧された感情が解放され暴れまわる様に音が響き渡る。フレーズとフレーズを繋ぐようにドラムの連打が響き、前へ前へと押し出していく。ラスサビを頂点に皆で抑揚を細かく付けていく練習をたくさんしたおかげで、落ち着いて一音一音に感情をこめられる。
 曲が終わると大きな歓声が起きた。俺は汗を袖でぬぐった。肩に入った力を抜くために少し回していると、凜がマイクに唇を近づけ、最後のMCを始めた。
『次で最後の曲です』
 ええーという歓声に、凜は「ありがとう」と小声で返した。
『ほんとうは、私はある証明で終わりたかったんですけど、ベースの人がどうしても違う曲がいいというので、私は諦めました……大切な曲だそうです。』
 そう言った時、柚木の顔が少し動いたような気がした。いや、じっとみてたわけじゃないので、気のせいかもしれない。そんな雑念を頭から振り払って、俺はネックを握った。
『最後まで聞いてくれてありがとうございました。じゃ、行きます、体温』
 ギターのフレーズが始まる。ランクヘッドの体温だ。
 俺が柚木に勧められて初めて聞いたランクヘッドの曲であり、一番好きな曲だ。どうしてもやりたかった。どうしても柚木に聞いてほしかった。
 直ぐにベースとドラムが入り、メロに入っていく。安定した哲平の刻みと凜のバッキングに支えられながらベースは常にうねり、バンド全体の音を巻き込むように突き進んでいく。そこまで速いテンポではないのに疾走感を放つ曲だ。
 サビに入ると凜の声が深く響き渡る。女声であることを感じさせないほど鋭く力強い歌声。モニタースピーカーから返ってくる凜の声に弾いている俺までがぞっとする。
 間奏では凜のソロと俺のフレーズが掛け合うように鳴り響く。とても難易度の高いフレーズだが、哲平の音に支えられながらどんどん上がっていく。
 ラスサビになだれ込む。水面に波紋が広がるように、静かな部屋で突然音が鳴るかのように、凜の絶叫が響き渡る。

 君が生きているということが
 ただもうそれだけで
 こんなにもこんなにも心が震えて
 涙が出ることに
 意味とか理由とかそんなものはいらない
 ああ、ほら、今だって聞こえるかい
 命が燃える音

 曲が終わると、一瞬何も音がしなかった。
 いや、一瞬だっただろうか。五分かもしれない。十分だったかもしれない。
 とにかく大きな空隙があって、それから大きな拍手が聞こえた。
 俺は二人の方を振り返った。哲平はニヤリと気味の悪い笑い顔を返した。凜を見ると、泣いているように顔をクシャっとさせながらこっちを見た。これまでで一番だったかもしれない。ここまで曲にのめりこんで演奏できたのは初めてだった。
 柚木は。
 柚木はどうしているだろう。
 さっき柚木がいた場所を見ると、誰もいなかった。
 ホール全体を見渡しても、柚木はいなかった。
 柚木が消えていた。



 ライブが終わった後も柚木は見当たらなかった。片付けは一年生には任されていなかったので、帰っていいといえば帰っても良かったのだが、柚木にしては社交性が感じられない。あんまり知らない人とも感想言いあったりしてるんじゃないかと思っていたのに。
 日が沈んでいく。降り続いていた雨はやみ、雲の隙間から橙色の光線が突き出している。俺はベンチに座って、ベースを抱きしめるようにして持った。人を抱いているような奇妙な安心感が胸に落ちていく。隣には凛のギターとエフェクターボード。哲平はなっちゃんと仲良さそうに帰った。あいつらそろそろ付き合いだすんじゃないだろうか……そうやって非生産的な妄想に耽って力を抜いていると、後ろから凛の声がした。
「はい、ファ●タ」
「おお……あ、オレンジか」
 凛がジュースを持ってきてくれた。そういや凛はオレンジ派だって言ってたような気がするな……いつだっけ?
「しゅーくんはグレープ派だっけ?」
「知ってたならグレープにしてくれよ……いつ言ったっけ? それ?」
「え、覚えてないの? ひどいなー」
 凛は顔を膨らませて怒っているふりをしながら、プルタブを引っ張った。目が笑ってるから怒ってないってはっきりわかる。凛にならって俺もプルタブを引っ張った。缶の中から炭酸ガスと一緒に気味良い音が吹き出る。
「去年の、丁度今頃、丁度このベンチで」
「……ああ」
 そこまで言われたらいくら記憶力の悪い俺でも思い出した。
「お前をバンドに誘った時か」
「そう、それね」
 凛がドヤ顔で人差し指を向けてきたので、俺は「ウザい」と一言だけ言って炭酸を喉に押し込んだ。焼けつくような感覚が心地よかった。
「なぁ、凛」
「何?」
「お前にとって、ライブって何?」
「……何それ? 禅問答?」
「いや、変な意味は無いんだけど」
 俺はいったん言葉を切って、凛の顔を見た。凛は俺の目線を避けるように顔をそむけ、ジュースの缶を口にそっと当てた。
「むー……あんまり難しいことは考えてないなぁ。何も考えてないわけじゃないけど、日本語が下手過ぎて上手く説明できない気しかしない……なんでそんなこと聞くの?」
「お前ほど上手ければなんか考えてることもあるのかもしれないな、と思って……いや」
 俺は思い直し、誤魔化さず、柚木がさっき言ってたことを言うことにした。
「柚木がさ、今日のライブの前、『ライブは勝負だ』ってって言ってたんだ」
「地味に韻踏んでるね、それ」
「ほんとだ」
 だけどどうでもいいな。俺は首を振って話を戻した。
「なんかさ、自分が誰かと何かほんの少しだけでも違うって、そう思いたいから音楽やってるんじゃないか……で、ライブは、音楽は、それを証明する場なんじゃないかって」
「ふーん。どうやったら証明できるの?」
「自分のバンドとか演奏が周りと比べて、何か一部分でも優れてるんだと、思わせればいいんだとさ」
 俺はそう言い切った後、ファンタをまた喉に通した。さっきより炭酸が弱くなっているような気がした。
「うーん。わからないでもないな。私もとっても不安になるもん……私はこのまま、誰の記憶にも残らないまま突然死んじゃうんじゃないかって」
「心配しなくても俺の脳裏には鮮烈に残ってるし、お前が残した数々の下ネタに対する不快感が脳細胞の核レベルで染みついてるよ」
「あはは」
 あははじゃねえよ。
「でも、そんな考え方って寂しくないかな?」
「なんで?」
「だって、自分のことばっかじゃん。それ……私は、練習してる時は、しゅーくんとてっちゃんのことを考えてるよ。どんな顔して、どんな事やりたいと思ってるのかなって」
 凛は真顔でそう言い切った。
 言われてみれば確かにそうだ。ライブに出て、自分が生きることを証明する。バンドメンバーはそこには見えない。
「でも、バンドメンバーがいるからこそ、ここに自分が居ていいんだなとか、自分がいるんだなってわかるんだけど……結局私も自分本位なんだな」
「自分本位が悪いってわけじゃないだろ」

「まぁ。そーだけど……私は、ライブ、好きだよ。てっちゃんと、しゅーくんと、一番近くにいれる気がするから」
 そうやって眩しく笑う凛を見て、俺は目を細め、ずっと前に思ったことをもう一度腹の中で反芻していた。思ったよりもずっと、凛は俺たちを見ている。俺は、同じように周りの人を見れているのだろうか。凛や、哲平や、柚木のことを。
 俺は凛と別れた後、考え事をしながら家への道をゆっくり歩いた。凛のこと、柚木のこと。舌の根に残っているオレンジの味が少し苦いような気がした。



 我が家である居酒屋「どっこい」に帰ると、珍しく親父が真面目に厨房で仕事をしていて、何やら複雑そうな料理を作っていた。BGMはいつも通り居酒屋なのにロックなのだが、聞いたことがないミドルテンポの曲がかかっていた。お客さんもいつもより多いような気がする。忙しそうだし、敢えて声をかける理由も無かったので、俺はジョッキにビールを注いでいた母親に「ただいま」と声をかけ、上へ上った。
 電気が消えたリビングを素通りして、三階まで行く。妹の鶫はまだ帰ってきていないみたいだ。受験生だというのにまだ吹奏楽部をやっていて、「今年が最後のコンクール」とかなんとか言って意気込んでいた。どうせ俺と同じ北野高校志望だろうし、北高はそんなに難しくは無いから心配は無いんだけど。
 振り向くと、自分の部屋の電気がついていることに気が付いた。やっぱりか、と心の中で呟きながら、俺は自分の部屋のドアノブに手をかけた。
「ただいま」
「おかえり」
 俺が部屋の中に入ってきても柚木はこちらに一瞥もくれずに、俯いて呟くようにして返事を返してきた。何だ、失礼な奴だ。そもそもこの部屋は俺の部屋なのに俺は荷物を床にそっと置きながら心の中で憤慨したが、まあ、今までそんなこと一度も気にしてくれたことなんて無かったことを思い出して、いつも通り諦めの気分に浸った。
「……制服のまま寝てたら、皺が寄るぞ」
「うん」
 柚木は俺のベッドの上に寝転がっていた。アルバムを開けてみている。ずっと整理せず束にして机の中に突っ込んでたんだが、最近気が向いてアルバムを買ってきて整理したもので、俺と柚木が映った写真がたくさん載っている奴だ。俺は知っている……最近になるまで気づかなかったけど、柚木は何か嫌なことがあった日は必ずこの写真を眺めている。ユーミンかよ。俺はあの歌を少し口ずさんだ。
「かなーしぃ、ことーが、あるーとー」
「別に悲しいことがあったわけじゃないよ」
「そうですか」
 俺はそう言って柚木が寝転がっている隣に腰かけた。柚木は何も言わない。俺は彼女にの方に顔を向けず、CDラックを何となく眺めながら、独り言のように柚木に話しかけた。
「ライブ、よかったよ」
「ほんと?」
「ほんと、うまくなったな……音も、厚くて」
「ギターが良い奴だからね。お父さんが、買ってくれた奴だし」
 柚木はまだこちらを向いてくれない。
「いや、やっぱ一年練習してたのが違うんだよ。ソロも、力強くて、良かった」
「ありがと……」
「中学の頃とは考えられないくらい良かった」
「……」
「ほんとに、良かった」
「……やめて」
 俺は柚木の方を見た。柚木はまだ俺から顔を隠している。
「何がダメだったんだ」
「勝てなかった」
「……勝つ?」
「私は、一番じゃなかった」
 柚木はそこで言葉を切った。顔は見えない。でも泣きそうな声だ。柚木の泣きそうな声なんて珍しい……特に俺の前でこういう弱みを見せるのを極端に嫌がってた奴だ。柚木はゆっくりと言葉を続けたが、声はまだ湿り気を帯びていた。
「わかってたの。勝てないって。鷲も言ってたし……追いつけないって」
「ああ、あいつは珍獣だし追いつけないって言ったな」
「いや、珍獣じゃないよ」
 柚木はまた少し言葉を切った。
「天使だよ。神様だよ」
「そんな大層なもんかな」
「音楽の神様に愛されてるとしか思えない。上手すぎる。歌も上手いのに、ギターも滅茶苦茶上手くて。あれだけ難しい曲をギタボでやって殆ど破綻が無いんだよ。それだけじゃなくて、見る度にまるで別人みたいにレベルアップしていって……才能がある人が努力したらああなんだって……」
 俺は黙って聞いていた。俺には分かっていたことだ。柚木にもわかっていると思っていたのだが、柚木はまるで初めて知ったかのような言い方で言葉を吐き出していた。
「私は、冗談じゃなくて、本気で倒そうと思って、乗り越えようと思って行ったのに……私が一番好きな歌を、あれだけ完璧に歌われて、感動して泣きそうなのに、一緒に、悔しくて泣きそうで……」
 俺は柚木の頭にそっと右手を乗せた。指の間をすり抜けるようにさらさらと流れる毛の感触が心地よい。柚木は拒否しなかったが、話すのを止めた。
「あいつは……凛は、確かに神様に愛されてるとしか思えないほど上手い。でも、神様でも天使でもない。人だ。」
「でも」
「あいつに聞いたんだ。ほら、お前がライブ前に言ってた奴……お前にとって、ライブってなんだと思う?って」
 柚木が初めてこちらを向いた。泣いていたようには見えなかったが、いつもより目が赤いような気がした。付き合い始めてから少しくらい素直になったと思ったけど、やっぱり強情なんだな。俺はゆっくりと話を続けた。
「……答えは??」
「俺らの一番近くにいれる気がして、楽しい、だってさ」
 俺は一人で笑いながら、柚木の頭をわしゃわしゃと撫でた。柚木は眩しそうな顔でこちらを見上げる。少し気恥ずかしいような気がしたが、俺は頑張って言葉を続けた。
「あいつは神様なんかじゃない。いつも下ネタばっかでふざけてるくせに、寂しがり屋で、周りのこと必死に見て……俺や、哲平のことを必死に大事にしようとしている、人間だよ」
 俺がそう言うと、柚木は恥じるように目を伏せた。何だか話しにくくなってきたので、俺も柚木にならってベッドに寝転がった。顔がとても近い位置に来たが、特に柚木は拒否しなかった。
「じゃあ……勝ち負けなんかで音楽を測ろうとして、自分のことしか考えてなくて……私は、気持ちの上でも凛ちゃんに負けてたんだね」
「なんでそうなるんだよ……なぁ、柚木」
 名前を呼びながらじっと目を見つめると、びくっとしたように柚木がこちらを見た。瞳の奥に俺の目が映っている。
 確かに、俺は、俺たちは、止まってられない。時は止まってくれない。柚木と俺の間には一年間という大きな壁が立ちはだかっているし、俺たちレフトオーバーズの三人は一年の間に色んな困難を乗り越えて強く結びついた。でも、この十余年間を一緒に過ごしてきた俺たちだって、止まってはいられないんじゃないだろうか。
 俺は柚木をじっと見ながら、言葉を続けた。
「俺は、お前が好きだ」
「な、なによ、いきなり」 「お前が……柚木が、焦った気持ちは、わかるとは言えない。俺は柚木じゃないし、いくら幼馴染でおまけに彼女って言ったって、気持ちを完全に理解できるとは思えない。でも……でも、柚木は、焦らなくても、俺の一番大事な人だから」
 柚木は面食らったような顔をしたが、みるみる内に顔が真っ赤になって行った。
「ほら、去年は、お前が死んじゃうかもしれないと思ってすげー怖かったんだけど、生きてるし、こんなに近くにいる。『体温』の歌詞じゃないけど、ただもうそれだけで、嬉しいんだよ、俺は」
「……くさいよ」
「恥ずかしがるな、マジで言ってるんだから」
「顔も近い、息が当たる」
「今更かよ……」
「でも、ありがとう」
 そう言って柚木は俺に、生まれてから二度目のキスをした。柚木の唇は、柔らかく、味なんかしないはずなのに甘酸っぱいような気がした。初めてした時は俺からだったから、なんだか不思議な感覚だった。しかも閉じろっつったのに、目を閉じてなくて、怒ったんだっけ。でも今更ながら反省した。至近距離からいきなりキスされたら目を閉じるスキすらない。なんだか妙に冷静な気持ちなのが不思議だったが、俺はそっと柚木の背中に手をまわして、抱きしめた。
「な、柚木」
「なに?」
「俺たち、もうちょっと恋人らしく生活してもいいような気がしないか?」
「恋人らしく、とは?」
「いや、なんか、前と変わらな過ぎて、付き合ってるのか不安になってくる気がして」
 柚木に不安や焦りを与えてしまったのも、俺が「彼氏」然としていなかったからかもしれない。口には出さなかったが、きょとんとした柚木の顔を見てそんなことを考えていた。
 だが、俺が言ったことを反芻するように目を動かした後、柚木は帰ってきてから初めていつものように不敵な表情でふふふと笑った。なんだか嫌な予感がしたが、その予感は予想通りになった。嫌な予感ばかり当たるという現象を桂木鷲の法則として何らかの事典に載せたいんだけどどうすればいいんだろう。
「私もそう思ってた……じゃあ、する?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて」
「じゃあどういうことなの? 若い恋人がベッドの上ですることなんてひとつじゃん?」
「ああいわれてみれば確かにそんな状況だしそんな状況でそんな意味深な言い方しちゃったおれがわるいんけどいやそういう話じゃなくって読点入れろよおれ長くて読みづらいよああそういうことじゃなくて!……それは、ちょっと、早すぎるんじゃないか?」
「でも、私、知ってるよ? 鷲が机の一番下の引き出しにゴム入れてること」
「うわあああああああ」
 なんでバレたんだと絶叫しそうになって寸でのとこで止めた。そういやこいつは俺のエロほ……いや、間違えた。柚木は俺の「男子高校生の夢と欲望の結晶」の隠し場所を把握するために定期的に俺の部屋の検査してるんだった……。将来的にそんなこともあろうかと一応買っておいたんだけど、まさかそれまでバレてるとは……。
「ほらお互いアレだし、俺も男だから、ほら、何かアレがあったら、困るし……あ、いや、責任はとるけど」
「もー、慌て過ぎだよ。冗談じゃん」
「冗談でそんなこというなよ……」
「でも、私は、今でも、いいんだよ?」
「うっ」
 柚木が半笑いでそんなことを言うので腹が立って、今すぐ押し倒してやろうかとむらむらしたが、かろうじて理性が止めてくれた。だめだ。これ以上は。この作品の趣旨的にもこのタイミングでそれはまずい……というかなんだこの作品の趣旨って。まだ混乱しているのか俺。落ちつけ。
 俺は何とか気持ちを落ち着けて、そもそも言いたかったことを思い出そうとした。なんだっけ。ああ。そうだ。
「俺が言いたかったのは、そう言うことじゃなくて、ほら、デートとか、二人で色んなとこ行ったりとか、一緒に遊びに行ったりとか、二人きりで過ごしたりとか……」
「全部一緒じゃん」
「いやそうだけど……」
 柚木が上体を起こしたので、俺も起こした。柚木は俺の方をじっと見ながら、今度は真剣な顔つきで言った。
「いいよ、デート。近いうちに行こう……二人きりで」
 恥ずかしそうに、でも妙に真剣な顔でそういう柚木を見て、俺は少し笑みを漏らした。するとどこからか、聞こえてくるはずのない音楽が聞こえてくるような気がした。



 君を必要とする魂は止められない
 この人生は単なる読みあわせじゃないから





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