Episode25:文字通りの甘い期待




 バレンタインデー。
 それは日本社会の神秘主義的な性質と資本主義的な性質がクロスオーバーすることで生まれた奇妙奇天烈な習慣である。
 毎年二月十四日に近付いてくると、世の女性達がこぞってチョコレートを買い求める。或る者は板チョコを買って手作りするための材料とし、また或る者は既に小綺麗にラッピングされた既製品を買う。その金が製菓会社という巨大な資本に吸収されるとも知らずに。
 そしてその甘ったるくて真っ黒な塊に、恋だか愛だか知らないが、目にも見えないし触れもしない、存在するかどうかも分からないものを乗せ、男性に手渡すのである。冷静に考えてみると気持ち悪いと言わざるを得ない。
 そして愛や恋を乗せない場合もあるらしい。男性という枠を超え、友達や家族に送る場合もあるらしい。ここまでくるとなぜ送るのか意味が分からない。もらう方としては嬉しい限りだが、送る方としては単なる自己満足の域を出ないだろう。
 そんな曖昧極まりないものに我々は一喜一憂している。なんと愚かしいことだろうか。これは日本社会の衰退の一端となりかねな――。
「朝から何熱心に書いてるの? 桂木君」
「なななななななななんでもないよ!」
 突然真横から声がしてびっくりした俺は、誰がどう見ても怪しいそぶりを見せながら文字を書き殴っていたルーズリーフを机の中に隠した。
 バレンタインデー当日。教室を漂うチョコの匂いと何となく浮ついた雰囲気に苛立ちを感じた俺は、今日のライブに備えて精神統一すべく、思いの丈を紙という媒体を通して吐き出し続けていた。要するに病んでいた。
 おそるおそる上を見上げると、隣に笑いをこらえているような表情をした橋本さんが立っていた。
「内容見えたよ……どんだけバレンタイン嫌いなの……」
「いや、バレンタインで身内以外にチョコもらったことないんだよね。でも周りは浮ついた雰囲気になってて……胸糞悪いわ……」
「へぇ、モテそうなのに?」
「そんな良い思いしたことねえよ……。」
 ちなみに、今までくれた人は、柚木(幼馴染み)、華菜(バンドメンバー)、以上である。二人ともチロルチョコ程度しか渡さないクセに高額の見返りを要求してくる。華菜に至っては、お返しは三倍と言われたからチロルチョコ三個渡したときは本気で腹パンされた。意味が分からない。
「んじゃ、今日その初めてを頂こうか……はい」
 そう言って橋本さんは、プラスチックの袋で簡単に包装されたチョコクッキーを手渡してくれた。
「え? くれるの?」
「うん。毎年割と仲良い人には渡してるんだ」
 渡してもらった袋を光に透かして見てみる。綺麗なハート型のチョコクッキーが「早く食え」と言わんばかりに俺をにらみ返していた。正直ものすごくおいしそうだ。
「ありがとう……ございます!」
「そんな良い笑顔の桂木君初めて見たよ」
「いやあ嬉しいな……ちゃんとお返しするよ!」
 初めて身内以外にもらったのでニヤニヤが止まらない。
「あんまり期待しないで待ってる……今日のバレンタインライブ、頑張ってね」
「あ、うん。頑張る」
 うっすらと微笑みながら教室の向こうへと立ち去っていく橋本さんを見送りながら、俺は机の中に急いで隠したルーズリーフを取りだそうとした。だが、そこで机の中に何か見知らぬものが入っているのを指先で感じた。
 家が学校からもの凄く近いので、普段教科書を学校に置いていない。だから文房具が少し入ってるくらいで、他には何も入れてないはずなんだけど……。
「これは……」
 綺麗にラッピングされた小さな小箱が二つ出てきた。
 慌てて机の中に戻す。
 いや、隠す必要ないのに何で隠したんだ俺。おかしいだろ俺。なんでだよ俺。
「まじかよ……!」
 冷静になれ冷静になれCOOLになれいやむしろKOOLになれ俺! 二月十四日に机の中にこっそり忍び込ませているプレゼントと言えばアレしかない。アレしかないけどそんなもらい方漫画でしか知らないからマジで緊張する爆発しろ俺!
 とりあえずさりげなくスクールバッグの中に忍び込ませた。だからなんで隠そうとしてるのか自分でもわかんないけど兎に角本能に従ったまでだ。他意はない。



 もらったチョコは昼休みに人のいない廊下でこっそり開封した。両方とも差出人の書いた手紙が付いていて、一個は隣のクラスの女の子で、もう一個は団子さんからだった。
 隣のクラスの女の子のものには、「レフトオーバーズのファンです。特に桂木君のベースがすっごく好きです。今日のライブも楽しみにしてるので頑張って下さい(ハートマーク)」と丸まった可愛いらしい字で書いてあった。涎を垂らしながらバンドやってて良かったと心底思った。
 団子さんのには「渡すの忘れそうだから机の中に突っ込んどきました。毒は入れてないので安心して下さい。」と整った字で書いてあった。クールすぎてもう何が何だか。
 とりあえず、「ずっと前から桂木君が好きでした」系じゃなかった。ほっとしたような、ガッカリしたような……。まあ家に帰ったら本命チョコの体を成した柚木のう○い棒チョコ味が待っている。昨日俺の部屋で食べていたから間違いない。せめて同じ駄菓子なら餅チョコにして欲しかった。
 教室に戻ると、俺の机の辺りに茶髪ビッチとロリが来ていた……これもはや脳内渾名じゃなくて悪口だな。
「桂木君」
「どもです」
 二人が同時に挨拶するので、俺も黙って手をあげた。
「どうしたの?」
「ほら、バレンタインチョコ、あげようと思って」
 ツッキーとなっちゃんのそれぞれが小さな包みを手渡してくれる。やっぱりもらうのは嬉しい。俺は受け取ったそれらを手に持っていた鞄の中にしまった。
「ありがと。大事に食べるよ」
「腐るから早く食べた方が良いよ」
 ツッキーが半笑いでそう言うので、鞄からツッキーのだけだして、目の前で食べた。市販のチョコレートだったがおいしかった。
「桂木君は今日何個もらったの?」
「えー……クラスメイトに一個、だん……大庭さんに一個、隣のクラスのレフオバのファンだって子に一個、で、この二つ足して五個、かな」
「大量ですね……流石イケメンは違いますね!」
 なっちゃんに茶化される。だからイケメンじゃねえよ。鏡を見る度に付き合わしている自分の顔は不快極まりないだらけきった顔だ。そこでふと思いついたことがあったので仕返しがてら聞いてみた。
「まあ義理ばっかだけど。そういやなっちゃんの本命は……」
「むぐぐぐ……」
「桂木君って偶に遠慮無くタブーに突っ込んでくるから好きだよ」
 ツッキーが冷やかすような声を出しながらなっちゃんの顔を覗き込むと、なっちゃんは一気に顔を真っ赤にした。
「その……用意は、したんですけど……どのタイミングで渡そうかと……」
「言っとくけど、もうセッティングはしないからね。クリスマスの時にしても無駄だってわかったから。ギャハハハ」
「ご、ごめんなさい……」
 なっちゃんがさらに赤くなって俯く。そう言えばこの話本人に詳しく聞くの忘れてたな。忘れてた、というか正確に言うとタイミングが無かったんだけど。
「あの日、どうだったの? ……いや、結果は知ってるんだけど過程を知らなくて」
「このヘタレロリは、我々の努力を水泡に帰すがごとく、普通に話して普通に歩いて帰ったんだよね?」
「へ、ヘタレロリはっ!……その通りだよね……」
 否定しかけたなっちゃんが否定を諦める。ヘタレロリか。各所でヘタレフニャチンと言われている俺と仲良く出来るかも知れないけど、話がややこしくなるので口には出さなかった。
「でもちょっとは距離縮まったんじゃない? なら俺らがやったのも無駄ではないと思うんだけど……まあむしろ思いたいだけなんだけど」 「そーだと良いんですけど……」
 ゆっくりでもいいんじゃないかな。きちんと気持ちを話すのに十五年くらいかかったと言うヘタレの極みが言ってるんだぜ。口には出さなかったけど俺はそう思った。……笑えない。ツッキーが少し心配そうな声でなっちゃんに声を掛けた。
「ま、せっかく用意したなら渡しときなよ。チョコだってカビ生えるよりはあいつの胃の中に収まる方が幸せだと思うよ」
「ふにゃんふにゃん……」
 言葉にならない声を出して口ごもっているなっちゃんを見て、俺とツッキーは顔を見合わせた。



 朝からバレンタインへの恨みをぶちまけることに必死になっていてあんまり意識していなかったが、今日はバレンタインライブだ。まあバレンタインライブと言ってもいつもの定期ライブのことなので、特別なライブなわけではない。
「……桂木くん、もう行くの?」
「ああ、うん」
 放課後になったので荷物をまとめて俺が小ホールに向かおうとすると、教室の掃除をしていた大嶋さんが声をかけてきた。
「私も行くからちょっと待っててくれると嬉しいな」
「そんなに急いでないしいいよ」
「ありがと」
 どうせ暇なので大嶋さん達に混じって机運びを手伝っていると、大嶋さんが俺の背後のベースを指さしながら聞いてきた。
「ソフトケース、変えた?」
「あ、わかる? ってかベースも新しいのなんだけどね」
「へぇ、そうなんだ。ソフトケースが変わっただけかな、と思ってたんだけど」
 今日は柚木の父親にもらったワーウィックで出る初めてのライブだ。そういう風に考えるとちょっと緊張するな。正直使いこなせてる自信は無い。
「あのベース、もう使わないの?」
「いや、使い分けようと思ってるよ。どんな風に分けるかは考えてないけど」
 どちらのベースも結構オールマイティに使えるのでどんな風に使おうか。G&Lが半音下げチューニング用とかかな。ワーウィックのほうがちょっと音が作りやすいというのはあるかも知れない。
「そういえば、大嶋さんの所は出ないんだよね?」
「うん、あんまり仕上がり良くなかったからでないでおこうって」
 そういって笑う大嶋さんを見ながら、最後の机を運ぶ。机が落ちるようにして床のあるべき場所に落ち、豪快な音が机の金属部分に反響する。
「それじゃ、行こう」
「そうだね」
 二人で小ホールに向かって連れだって歩き始める。
「……」
「……」
 不自然な沈黙が二人の間に走る。というかさっきから大嶋さんの様子がおかしい。なにがおかしいかって、いつもの「ゥフフフフ」ってのを一回も聞いていない。どうかしたんだろうか。お腹でも痛いんだろうか。
「あのさ、大嶋さん、どうかした……」
「あああああ、あのね、今日のライブ、何やるの?」
「あ、悪いけど凜に言うなって言われてるから言えない」
「あ、そう、そうか、そうだよね、お楽しみだよね!」
「……」
「……」
 そしてまた沈黙。ほんとなんだこれ。
 なんか言いたいことでもあるのだろうか。チャック開いてるとか顔に何かついてるとかだったら恥ずかしいな、と思ってさりげなく確かめてみたが特になんてことは無かった。なんだこれ。
 そうやって何故か気まずい空気のまま歩いていると、小ホールが見えてきた。
「あのね、桂木くん」
「うん、何?」
 大嶋さんがいつの間にか小さな黄色の紙袋を取りだしていた。それを見てやっと胸の中に引っかかっていたもやもやが溶けるように無くなっていく。
「これ……その、なんていうか」
「チョコ?」
「そう、そうなんだよね……これ、もし良かったら、要らなかったら良いんだけど……」
「くれるの?」
 赤くなった顔を大嶋さんが縦に振った。両手で包み込むようにしてそのチョコをもらうと、大嶋さんはやっと少し微笑んだ。顔がひきつってるけど。
「もしかしてさっきからこれ渡そうとしてたの?」
「えっ、なな、なんで?」
「だって、なんかずっと黙ってたし、笑わなかったし」
 そう言うと大嶋さんが黙り込んで泣きそうな顔をしたので、ちょっと悪いことをしたような気持ちになって、すかさず繋げた。
「……でも、ありがと。大事に食べるよ。」
「うん、ありがとう……」
「じゃ、また後でね」
 そう言って俺は自分の鞄の中にしまった。大きさの割にはもらった他のものより少し重量感があるように感じたのは多分気のせいだ。



 ライブ本番。
 久しぶりに立った小ホールのステージは、初めて定期ライブで立った時より小さく見えた。俺は緊張で背筋がすこし震えるのを感じたのを紛らせるために、ワーウィックのネックをすこし強く握った。
 そして上から見てるとやっぱりカップルっぽい感じの二人組がちらほら見えた。そこまで多くはないが、それでもいつもより目立って見える。でもそれは気持ちの問題かも知れない。そんなことを考えながらチューニングを終え、俺は一息ついていた。
 しかし隣に立ってエフェクターを見つめている我らがギタボさんはそんな好意的な受け取り方をしていないようだった。
「フ○ック……」
 今回はMCを任せて欲しいと凜が自分から言ったので、何も打ち合わせ無しで来てしまった。MCをしたくない俺と哲平は快諾したが、俺は今更になって後悔していた。無駄だと思ったけど、一応こっそり凜に声をかけた。
「あのさ、頼むからマイク通してフ○ックとかいうなよ……」
「分かった。じゃあ『ファ○ク』は言わないから」
「頼むから公序良俗を反する言葉を言うなよ……『シッ○』も『サノバ○ッチ』も無しな」
「チッ……」
 あからさまに舌打ちしやがった……。凜のフラストレーションは俺以上みたいだった。
「ほら、なんか腹立つことがあったら俺が聞くからさ、頼むからステージ上で……」
『はいはいみなさんちゅうもーく!』
 凜がボーカルマイクを通して大声を出す。微かなハウリング音がホールの空気にキーンとヒビを入れると、小さな歓声が起きた。
『今日はね、もうね、バレンタインと言うことでね、ほんと楽しい日なわけですよ!』
 お笑い芸人みたいなコミカルな話し方に逆に恐怖を感じた。凜は普段こんな作った声を出す奴じゃないので、含みがあるようにしか聞こえないのだ。だがお客さんは気づいてないみたいで、あちこちで笑っている。胃が痛い。
『もうあっちこっちでねぇ、チョコを持った女の子が赤い顔して、男の子がきょろきょろしてね……』
 ちらりと哲平の方を見ると、口の形で、「大丈夫か?」と聞いてきた。俺は横に首を振った。大丈夫じゃないだろ、これ。
『そんなふわふわした雰囲気がねぇ、なんていうかもうね――』
 凜が一瞬滅茶苦茶怖い顔をした。
 笑っているわけでもなく、怒っているわけでもない。むしろ無表情だった。
 前の方にいる客の顔が凍り付く。
 哲平が恐怖の表情を浮かべた。
 俺はと言えば、正直怖すぎてちびりそうでほんとうに生まれてきてごめんなさい。
「――うんざりなんですよね」
 そう言った瞬間高速のカッティングが始まる。
 そう入ったか……。
 リズムもクソもなく暴れ回る凜のギターの中に無理矢理押し込むように俺と哲平がバッキングを入れ、一瞬のユニゾンの後に一気に音の洪水を吐き出す。9ミリパラベラムバレットのパニッシュメントだ。
 高速のコードストロークの上に噛みつくような声で歌を乗せる。哲平がツインペダルで意味が分からないくらい速いフレーズを叩き、それにぶつけるようにしてもの凄く速いベースの刻みを乗せていく。正直弾けてない。
 この某動画サイトで「リア充爆発ソング」と呼ばれているらしい。これが候補に挙がった時俺は大反対した。まず、体力的な問題だ。超人凜が良かったとしても、俺と哲平が疲れる。次に音の問題だ。ギター一本だと音圧にかけてしまう。
 凜は両方ともいとも簡単にクリアした。一つ目の理由は、「だってしゅーくんたちが頑張ればいいだけじゃん」と一蹴した。二つめの理由は、「アレンジして、あとはエフェクターで誤魔化せるじゃん」と言い張り、原曲に音を付け足し、マルチエフェクターからエフェクトをかけた音を二個のアンプに別々に出すという荒技を演じて無かったことにした。ほんとこの女は……。
 ソロに入ると鋭利な刃物のように攻撃的な音になった凜のギターが縦横無尽に響いた。いつもライブ中殆どアクションしない凜だが、今日は嫌と言うほど動いている。凜の動きに合わせるようにして最前列の人達も暴れている。俺も頑張ってヘドバンしたが正直疲れてきた。
 ソロが終わった後、またギターのカッティングに戻る。そして、瞬間冷却したかのように一気に凍り付いた空気を、アイスピックで無理矢理砕き割るような絶叫が響き渡る。

 埋葬用の表情
 焼かれた伝承
 螺旋状のゼロ
 忘れた人

 最後は原曲に合わせて俺もシャウトする。凜がリフをひきながら暴れる。体力的に死にそうになっている哲平が叫ぶ。そして終わる。
 曲が終わると同時に大きな歓声が上がり、その歓声に埋もれるようにして俺は床に倒れ込み、哲平はドラム椅子からずれおちそうになった。三分ほどの短い曲だが一曲やるだけで体力を半分くらい消費してしまう。
 俺と哲平は肩で息をしながら一人ステージ上で立ち尽くしている凜を見つめたが、凜は俺らのことを全く見ていなかった。一人狂気に満ちたかのように虚空を見つめている。ヤバいと思ってフロアチューナーを叩いたが遅かった。
 今度は鼓膜を裂くような勢い重低音が鳴り響く、歪みきった音がアンプから吐き出された。やっぱりテンポは速い。俺は死ぬほど焦って立ち上がり、死ぬほど焦りながら四弦をドロップDチューニングした。
 凜のデスボイスが小ホールいっぱいに響き渡る。チューニングを終え一小節遅れくらいでなんとか俺も入った。客は凜の勢いに全く付いてこれていないようで、半分くらいは唖然としている。
 曲はマキシマムザホルモンのホワッツアップザピーポー。凜がホルモンの中で一番好きな曲らしい。
 タムの音と同時にBメロに入る。体全体を使いながら何とかリズムを取るが、パニッシュメントの疲れのせいで上手くとれない。ヘロヘロになりながら哲平と二人でなんとか凜について行く。全曲を通して激しいようで、緩急のある曲なのでリズムを取るのが意外と難しいのだ。
 凜はデスボイスと普通の声を上手く使い分けながら歌い続けている。狂っているかのようで、実は冷静に演奏しているみたいだ。一回目のサビに入ったくらいでやっと客も乗ってきたみたいで、リズムを取ってくれるようになった。
 最後に高速で暴れ回る。無駄な音をたくさん立て、シャウトし、暴れ回る。正直疲れてそんな元気なかったが体の中にある非常電源のスイッチを押してなんとか乗り切った。凜がギターの音を左手でミュートすると同時に歓声が沸き上がった。
 俺はふらふらしながらチューニングした。哲平は、スティックが折れたみたいで、後ろからスペアのスティックを出している。そして流石の凜も肩で息をしてゼエゼエと言いながら水を飲んでいる。
『やー……あと一曲なんで……三曲続けてやってやろうと思ったんですけど……流石にきついっすねー……』
 切れた息を整えながら話す凜を見て半分くらいの客は笑ったが、当事者の俺は笑えなかった。もっと体力つけないと本気で危ない。
『今日は……バレンタインに……ぴったりの、曲を……選んできたんですけど……』
 どこかだよ、というツッコミがどこからかあがり、舞台下から笑い声が上がる。ほんと何処がぴったりなんだよ。ロマンチックの欠片もない。
『まあ、最後くらいは普通の曲で終わっときます……』
 ゆっくりと息を吐き出しながら凜が呟くように続けた。
『マキシマムザホルモンで、爪爪爪』
 どこが普通の曲だよ。
 そんなツッコミが聞こえそうなくらいの無言の瞬間の後、哲平が息を吸う音が聞こえた。
 いきなり始まるドラムに突き落とされるようにして歪んだ音の渦の中にたたき込まれる。遠雷の様に響くデスボイスの上にギターが乗っていく。低い方のデスボイスと高い方のデスボイスが変化し、突き上げられるような感覚に襲われる。
「RIAJUUSHINEEEEEEEEEEEEEEEEEE!!!!」
 凜はすごい。本当にすごい。だから、凜が歌詞変えて「リア充しね」って言ってるのに気がついたのは俺だけでいい。ほんと俺だけでいいから頼む。
 変則的なリズムでギターリフとスラップが交錯し、聞く人の鼓膜をガタガタと揺らす。ど派手な金物の音が連発し、爆発するようなグルーヴが生まれる。冷静に考えてみると凄い曲だ。
 原曲でドラムボーカルの部分に入ると凜はいつもの綺麗な声に切り替え、音を紡ぐようにして力強く歌う。哲平と目が会うと、苦笑いするみたいな顔でこちらを見てきた。何度聞いても思うが、凜の能力は規格外だ。あのリフを弾きながら歌えるのは奇跡に近い。
 最後にスネアの音に導かれるようにして大サビに入る。
 声が、ギターが、ベースが、ドラムが、人を、物体を、空間を揺らし、ねじ曲げる。
 曲が終わった事に気付かなかった。三半規管が麻痺したかのように視界が渦巻いている。
「あ、りがとう、ございました」
 鳴り止まない歓声に向かって、凜がよろよろになってマイクに向かって一言言うのと同時に、小ホールの照明が落ちた。
ヘドバンのしすぎでまっすぐ立っていられない。急いでエフェクターを片付けたが次の先輩バンドが入って来た。ベースの先輩が苦笑いしながら片付けしている俺に手を貸してくれた。
「すごく良かったけど……この後ライブは嫌だな……」
「すいません」
 ほんと空気読まなくってすいません。
 謝る気持ちは殆ど無かったが。



 ライブが終わった後、俺は一人で飲み物を買いに外へ出た。
 校内にある自動販売機コーナーでレモン味の某炭酸ジュースを買った。目を閉じてゆっくりと呼吸を整えながら冷たいジュースを喉に流し込んだ。炭酸の弾ける感覚が喉を焼き尽くすように通り過ぎ胃へと消えていくのが心地良かった。
 それから俺は自販機の近くの壁にもたれ掛かって地面に腰を下ろした。今日ほど体力を使ったライブも無かったな。そもそも選んだ曲が激しかったのだが、凜の謎のハイテンションについて行くだけで文字通り骨が折れそうだった。
「……あんなハイテンションにしなくても良かったのに」
「私も今そう思った」
「だろ? ……って、うわっ! びっくりした!」
 目の前に凜が仁王立ちしていた。独り言聞かれるのって結構恥ずかしい。まあでも聞かれたのが凜で良かったと思うべきかもしれない。
「いやー、エネルギー超消費した! ちょっと痩せたかな!」
「エネルギー消費量は凄いと思うけど、凜って言うほど太って無いだろ?」
「しゅーくん的には太ってるのもアリ?」
「太りすぎは健康にも良くないけど、個人的には少し肉づきがいい方が触り心地が……ってなに言わせやがる」
 篠○愛が好きでデブ専だと言われるなら俺はデブ専で良い。いや何の話だこれ。
 凜はコーラを買ってから俺の隣に腰掛け、缶を開けた。プルタブを弾く時の爽快な音が心地良かった。
「もう終わった事だしいいけどさ……なんであんなテンションだったんだよ」
「むー、だってバレンタインって腹立つじゃん! ウキウキウキウキニヤニヤニヤニヤ……!」
 凜が譫言のようにバレンタインへの苦情を述べているのを聞いていると、朝ルーズリーフに俺が書き殴っていた内容が脳裏をよぎった。まあ、でも、そんなに悪いことばっかりな日でも無かった。義理ばっかりだけど今日はわりとチョコが貰えたので、あんなこと書かなきゃ良かったと少し後悔していた。
「ってか、私見たんだよ! しゅーくんだって何か本命っぽい感じのもらってたじゃん!」
「はあ? 義理ばっかりだと思うんだけど……」
「あのサイドテールの子は?」
「……」
 ライブ前にもらった小さな黄色の紙袋を思い浮かべた。本命かどうかは置いておいて、明らかに手作りっぽかった。しかも手が込んだ。
「本命かどうかはわかんないけど……」
「しゅーくん」
 俺の言葉を遮るようにして凜が少し大きな声で呟いた。俺は凜の方を見たが、凜は全然違う方向を見ていた。
「分かってるんでしょ?」
「……・さあてねぇ」
 しらばっくれた。
「しゅーくんのそういうとこが嫌いだよ」
「……いつからお前はそんなに聡くなったんだよ」
「一年も一緒にいれば分かることもあるのね」
「でも分からないこともあるだろ?」
 じっと凜を真っ直ぐ見つめる。あれだけ人間とコミュニケーションをとれなかった奴が、俺の考えていることを見透かすような顔つきで目の前に仁王立ちしている。
 それはこれまでの俺にとっては嬉しいことのはずだったのに、今の俺にとってはとても困ったことだった。
「俺は目の前に或るものを崩したくない。それだけなんだけど」
「それは詰まるところ要するに換言すると……ヘタレフニャ○ン」
「だよな」
 正直否定出来ない。だけど「詰まるところ」と「要するに」と「換言すると」って似たような意味だよな。どうでもいいけど。
「私はどうなっても知らないよ」
「どうにかなった時は……その時は凜に頼るよ」
「むー……私に頼られても困るのにね」
 凜は独り言を呟くように言った。その声は集中力が散漫になった俺の頭上を軽々と通過していった。俺が何も言わずに見ていると、凜は俺の横に腰掛け、制服のポケットから棒状の何かを取りだした。
「何それ?」
「うん? バレンタインチョコ、しゅーくんにあげようと思って」
「解説の一ノ瀬さん……私の目が正しければそれはう○い棒チョコ味に見えるのですが……」
「うん、その通りですよ、実況の桂木さん」
 そう言って笑顔で渡して来たので思わず受け取る。見間違えるはずもない、どう見てもチョコ味のう○い棒だ。強烈なデジャヴに襲われる。う○い棒大人気だなおい。
「またあからさまに義理の匂いしかしないものを……」
「大事なのは気持ちなんだよ! そしてう○い棒はうまい」
「気持ちが嫌と言うほど伝わるからダメなんだろ!」
 そしてそれは某巨大掲示板の管理人や。
 俺はもらったう○い棒をその場で開封し、半分に折った。粉がパラパラとこぼれて床に散ったが、気にしなかった。
「ほら、お前にもやるよ」
「いらないよそんなもん」
「……要らないものを人に渡すなよ」
 そう言うと凜は面白く無さそうにカラカラに乾いた笑い声を上げた。無性に腹が立ったので無理にでも食べさせようと思った俺は、折れた片方を凜の顔の前に突き出した。
「ほら、あーん」
「うっ」
 凜は少し迷うような表情を見せたが、結局差し出したそれを咥えた。なんかこの表現エロいような……。
「これは……しゅーくんエロい!」
「え、エロくはねえよ」
 誤魔化すようにしてもう片方を口に放り込み、咀嚼する。
 口いっぱいにチョコの甘みが拡がった。
「うん、甘い」
 舌の上に残った後を引くような甘み。
 俺はこの時はその本当の意味をまだ知らなかった。



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