Episode23:光るものは全て金だと思った彼女は(後編)




「桂木君、乾杯の音頭取ってよ」
「へ?」
 ニヤニヤしながら見上げるツッキーと団子さんの視線に押されるようにして立ち上がる俺。冷や汗が空気中に霧散する。こういう時どうしたら良いんだろう。乾杯の音頭とか取ったこと無いからわかんない。えーと、えー……。
「か、帰るまでが! 打ち上げです!」
「それ遠足ですよね?」
「……か、乾杯!」
 なっちゃんに突っ込まれたが、俺は無視して押し切った。グダグダな雰囲気で乾杯が始まる。とりあえずみんなとドリンクバーのグラスを重ね合わせる。
「鷲、お前んち居酒屋なのに乾杯の音頭とか聞いたこと無いのか?」
「いや気の利いたこと言わなくちゃならんのかと思ってちょっとミスった」
「むー……ちょっとじゃないよね。だいぶミスったよね」
「正直ごめん」
 斜め向かいに座る哲平と隣に座る凜にたしなめられたので正直に謝る。しかし俺が無茶ブリに答えられるほど器用な奴じゃないと分かってるだろうに。
 ライブが終わった後、俺たちは駅の近くにある、冷凍食品をイタリアン(笑)と銘打って売りつけてくるクソ安い某ファミレスまで来ていた。未成年なのでお酒も飲めないし、お金も無いから結局こういう安い店に落ち着いてしまうのである。順当と言えば順当だけど、興がないと言えば興がないよね。
「あのソロ良かった! テンションあがった!」
「ツッキーこそ……急に頼んだのにアドリブまでありがとう!」
「その辺は雰囲気でひいただけ。実質何も考えてないからギャハハハハ」
 赤みがかった優しい色の照明の中で凜とツッキーが楽しそうに話しているのを見ながら、やっと凜にも(笑い方以外)まともな友達ができたんだなぁ、と思わずしみじみしていた。でも感慨に浸ってられたのも数秒のうちで、俺の右肘を押そう電撃の様な痛みが……。
「いてててて、何? 大嶋さん」
「なんでサポートにツッキーいれたって言ってくれなかったの?」
「いや、だって、聞かれなかったし」
「そういう問題じゃないでしょ」
 ライブが終わった後から大嶋さんにずっと恨み言を言われ続けている。言わなかったのがそんなにまずかったのかな。でもエレクトリックガールズが何やるのか聞いても教えてくれなかったんだからあいこじゃないかなと思ったけど、凍り付いた顔で笑う大嶋さんに口答え出来なかった。痛ててて、肘肉が!
「お、痴話喧嘩?」
「お前はややこしいからだまってろ!」
「……むぐぅ!」
 俺が左手で凜にテーブルの上にあったフライドポテトを凜の口に無理矢理ねねじ込むと、凜は喉のつぶれたカエルのような声を上げた。すると右手に絡みついたままの大嶋さんの指が俺の右肘の同じ箇所をさらに強く……!
「いててててて、ゆーちゃん止めて」
「……その呼び方出来ればやめて欲しいな」
 大嶋さんがやっと指を離してくれたので、俺は冷たいジュースを口に含んだ。あと腹いせに凜の横腹を軽く殴った。「ああ、しゅーくん、もっと……ふぐぅ!」死ね。
「モテモテじゃないか、鷲」
「いや、グダグダの間違いだろ……飲み物取ってくる」
「あ、じゃあ、しゅーくん私のも! えっとね、グレープフルーツ対レモンスカッシュが1対2で……」
「ああグレープフルーツジュース100%ねはいはいおつかれ」
 俺は凜のコップを取り上げたが、グレープフルーツ以下は聞き流した。ドリンクバーはそうやって使うものじゃありませんからね! 俺が立ち上がって席を離れようとすると、団子さんも同時に立ち上がった。
「私も行くけど……誰か要る?」
「あ、じゃあ私烏龍茶で」
 大嶋さんが差し出したコップを団子さんが受け取る。俺の方を彼女が振り向いた時に頭の団子部分がかすかに揺れるのを見逃さなかった。あれ一回は掴んでみたいな。
 ドリンクバーコーナーでグレープフルーツジュースを3分の1ほど注いだ後、レモンスカッシュの注ぎ口にコップを移動させていると、団子さんが呟くように話しかけて来た。
「桂木君ってなんだかんだ優しいよね」
「へ、なんで?」
 すると団子さんはレモンスカッシュが注がれているコップを黙って指さした。ああ、これね。色々言っても、凜の言うことは基本的に聞いちゃうんだよなあ。
「まあ、グレープフルーツジュースだけじゃ酸っぱいしね」
「いや、それだけじゃなくて、自分の後にしてるでしょ?」
 今度は左手に持った俺のコップを指さした。俺が「これ?」と言って、左手のコップを持ち上げると、団子さんは軽く頷いた。
「自分の飲み物取りに来たのに、無意識に人のからいれてるんだから、桂木君はたぶん良い奴なんだよ」
「そんな深い意味は無かったんだけどな」
「いや、そう言うのって無意識にでちゃうもんだと思うよ……だから桂木君は鈍感なんじゃなくて、自分のことを常に後回しにしてる、でしょ?」
 団子さんは烏龍茶が注がれているコップを注視しながらそう言った。何が言いたいのか先が見えなかったので、黙ってアイスコーヒーの所にコップをセットしていると、団子さんは話を続けた。
「でもね、嫌なら嫌って言えば良いと思うよ」
「……なんのこと?」
「ふふん、いいね。そのブレない感じが」
 団子さんはニヒルに笑うと、踵を返して席へと戻っていった。俺は溢れそうになったコーヒーを少し啜り、氷をいれた。もやもやとした輪郭のない苦みが口いっぱいに拡がった。



 7人でファミレスを出ると、粉雪がちらついていて、街頭の白い光を小さく反射しながら地面に降り注いでいた。時刻は8時半。辺りには手を繋いで駅前を闊歩するカップルが大量発生していて、ファミレスの前に楽器を持ったまま屯している俺たちは明らかに場違いだった。
「じゃ、今日は遅いし、解散ってことで」
「おつかれ」
「おつかれー」
 ツッキーが俺と凜のいる方に目配せをしながら言ったので、俺と凜は頷きながら言葉を返した。なんとか哲平となっちゃんを二人にさせなきゃならない。作戦開始だ。うっすらと空気に緊張感が流れてきたが、哲平は気づかないようだった。ツッキーが口火を切る。
「私はユーコの家に行くんだけど……なっちゃんとちかちゃんは?」
「悪いけど真っ直ぐ帰る」
「まぁ明日忙しいからね、ゥフフフフ」
「わ、わ、私も遅いし帰る!」
 大嶋さんと団子さんとツッキーが話していると、なっちゃんが発車しかけた電車に飛び込むようなギリギリのタイミングで話に乗っかる。まずは第一段階クリア。
「俺らはどうするんだ?」
「うん、俺は帰るつもりだけど、凜は?」
「うん、私も、帰る」
 哲平の声に俺らが同じ答えを返す。これで全員の帰り道が決まった。第二段階クリアだ。後は凜が逃げ切ればミッションコンプリートなのだが、正直これが一番難関なんだよな。
「じゃ、凜と……なっちゃんは、帰る方向一緒だよな?」
「あ、ははは、はい!」
 完全に上擦った声でなっちゃんが返事するのを見ながら、俺は生唾を飲み込んだ。食道を焼くようにのろのろと唾液が腹に落ちるのを感じる。他の4人も固唾を飲んで見守っている。凜、頼むから上手くやってくれ。
「あ……私は……その、駅の反対側のケーキ屋でケーキ買って帰るから!」
 上手い。凜にしては上出来な断り方だ。俺は目の前の粉雪を散らすように小さく息を吐いた。どうにかこのまま上手くいって欲しい。
「まだ店開いてるか……開いてるか、あそこなら。じゃあ俺らもついて行くから一緒に帰ろうぜ。暗いし、一人だと危ないだろ?」
 思わず舌打ちしそうになった。おそらく凜は上手く返せないだろう……万事休す。こんな時に限って妙な騎士道精神を発揮するこのヤ○ザに心底苛立ちを感じた。ツッキーや大嶋さんが苦々しそうな顔をしているのを横目で見ながら、俺は溜息をついた、が。 「えーっと……その、今日は電車で帰るからさ、その、悪いけど二人で帰ってよ」
「へ? あ、ああ、うん、いいけど」
 拍子抜けしたようにマヌケな声をあげる哲平を見ながら、俺は耳を疑った。凜が逃げ切った、だと?
「じゃ、またね、みんな」
「あ、うん、ばいばい」
 凜が手を振って、駅の反対側へと歩いていく。呆気にとられたような顔をしながらも、大嶋さん、ツッキー、団子さんも離れていった。俺と、訝しそうに怖い顔つきをしている哲平と、口を開けたままのなっちゃんがファミレスの前に取り残された。
「あ、じゃあ、俺らも帰るけど……練習明後日だったっけ?」
「うん、凜の家な」
「オッケー。じゃあまた明後日」
 哲平が手を振る。俺は隣でまだ口を開けたままのなっちゃんの方を見ながら声をかけた。
「なっちゃんも……その……気をつけて」
「あ、はい」
「まあ哲平がいたら変なのは……逆に近づいてくるかも知れないけど」
「どういう意味だよそれ」
「ハハハ」
 笑って誤魔化し、二人に手を挙げてから後を振り向く。家への最短距離はこっちじゃないけど、雰囲気から考えると、反対方向に行かないと駄目な気がした。
 暫くふらふら歩いていると、どんどん現実味が増してきた。俺が5秒くらいで適当に考えた作戦だったのに面白いように上手くいったな。ちょっと気分が良いけど、まだ成功したとは言えない。後はなっちゃん次第だよね。
 ふと、左手にあった駅の裏側へ続く道を見た。商店街のクリスマスのイルミネーションが欠けて見える。あんまりこういう人口の光を綺麗だと思ったことはないけれど、今日は何となく綺麗に見えた。その光に誘われているような気分になって、俺はそちらの道に足を進めた。
 駅のすぐ前にあるケーキ屋の前に凜がボーッと立っているのを見て俺はそちらへ近づいていった。気配を感じたのか、凜は後ろをちらっと見たが、すぐにショーウィンドーに視線を戻した。
「どれ買うの?」
「ふーん……あのブッシュドノエルかな。大きさも丁度くらいだし」
「ってか嘘じゃなくて本当にケーキ買うんだ」
「うん、家では買ってないからねぇ」
 俺もショーウィンドーを見ながら凜に声をかけた。店内の照明から届く柔らかい光を受けながら、真剣な目で売れ残ったケーキを品定めしている凜は、なんというか、笑ってしまうほど平和な絵面に見えた。
 凜がケーキを買ってくると言うので、俺は店の外で待っていた。雪の粒が少し大きくなってきて、粉雪と言うには少し物騒な大きさになってきた。濡れるとまずいのでベースのソフトケースにレインコートを掛けていると、凜が小振りな箱を抱えて出てきた。
「あ、それ持ってるんだいいな」
「一ノ瀬楽器店に置いてないの?」
「うん。こんど言っとこう」
 そう言って凜はメモを取るフリをした。これ絶対後で忘れるパターンだろ。俺は息を漏らすようにしてふっと笑いながら、凜に声をかけた。
「凜、ちょっと散歩しない?」
「へ? なんで?」
「ほら、クリスマスイブだし……雰囲気楽しもうかな、と」
「まぁ……いいけど」
 凜は苦笑いしながら頷いてくれた。



 さっきちらっと見えていたイルミネーションを見ながら二人で駅前を歩いた。さっきも似たようなこと考えてたけど、ものすごく気合いを入れてオシャレしたんだなと分かるカップルがたくさんいる中で、制服にごつい楽器を抱えて歩いている俺たちは少し滑稽に見えるんだろうな、と思った。
「お前、さっき良く誤魔化しきれたな」
「フフン。私も空気読めるでしょ?」
「ほんとにな」
 最初にあった時の凜のスキルじゃ考えられない程のファインプレーだった。多分みんな感心したと思う。まあ多分俺が一番ビックリした。
「凜、お前、変わったな」
「むー……そうかな。まだレッチリも下ネタも好きだけど」
「ん、いや、成長したなって」
「なんでそんな上から目線なんだよー」
 二人でクスクスと笑った。一時期喧嘩して話してなかったけど、凜とは何だかんだで入学当初からずっと一緒に過ごしてきているので、何となく親心みたいなものがあるのだ。それは多分凜も同じなんじゃないかな、と思う。少ししてから、凜は少し真顔になって話を続けた。
「でもやっぱり今でも通りすがりに『ちょーしのんな』とか言われるけどね」
「……マジかよ。誰に?」
「知らない。というか、知ってるのかも知らないけど顔覚えてない」
 凜は苦々しそうに呟いた。俺は黙って歩きながら、煉瓦で組まれた地面を眺めていた。地面に落ちた雪が形を留めずにすぐに溶けていく。今でも凜にそういう残酷なことをする奴がいると思うと悔しくなった。
「今でも『レフトオーバーズ』ってことだよ。このケーキみたいに」
「でも残り物でもケーキおいしいじゃん」
「そう言ってくれる人がいるからいいんだよ」
 凜は満足そうに微笑んでケーキの箱を持ち上げた。俺がそれを奪い取ろうとすると、凜は「むぅ」と言ってそれを俺から遠ざけた。そこでふと今日のライブのことを思い出しながら凜に言った。
「今日のステアウェイ・トゥ・ヘブンの歌、すごく良かった」
「そうかな? ちょっとミスったなと思ったんだけど」 「いや、鳥肌立った」
「恥ずかしいからあんまり褒めないでよ」
 凜は気持ち悪い声を出して笑ってから、ステアウェイ・トゥ・ヘブンを小声で歌った。この歌詞が好きだ。どういう意味なのかは解釈が割れているらしいけど、俺は、音楽(というかロック)こそが人間を幸せにして正しい道に導くものだみたいな解釈が一番いいんじゃないかなと思っている。まあ、多分、ヤクやってふわふわした気持ちになりながら書いた歌詞で、あんまり意味は無いというのも説得力はあると思う。
「でも、聞いてる人あんまり盛りあがってなかった気がしたんだけど……やっぱ知らないからかな」
「有名な曲なのになぁ……曲調もあるけど、圧倒されてたんじゃないかと思うが」
「むー、そんなことないよー…やっぱ知名度と曲調じゃない?」
 凜は恥ずかしそうに顔の前で手を振ったが、ステージを見ていた人の顔を思い出す限り、俺はやっぱり圧倒されてたんだと思う。
「そういえば、しゅーくん、つぐちゃんと柚木ちゃん来てたでしょ?」
「……ああ、うん、まあ」
 凜も見てたんだ。俺は、あんまり話したくない話題に流れそうだなと覚悟して、歯を食いしばった。
「話しかけに言ったの?」
「いや、終わってから行ったら妹しかいなかった」
「先に帰っちゃったの?」
「だろうな」
 興味なさそうな声を作りながら言うと、凜は「ふぅん」と一言だけ言って立ち止まると、水気を振り払う犬のように頭についた雪を振り落とした。隣を通った知らないカップルが珍獣を見るような目で凜を見ていたので、俺はそいつらの背中に中指を立てておいた。
「ね、しゅーくん」
「何?」
 少し溜めてから凜は話を続けた。
「……もしかして、家に帰るの嫌なんでしょ?」
「……ばれた?」
「ゥフフフフ!」
「誰の真似だよ」
 割と似てるから質が悪い。俺は凜の方を見ないようにしながら溜息をついた。凜にまでばれてしまうとか末期だ。
 ぶっちゃけて言うと、俺は家に帰りたくなかった。今日のライブが終わったら柚木にきちんと話そうと覚悟はしていたが、ライブを聞かれてしまったので覚悟が揺らいでいた。聞かれたからどうってことじゃないんだけど、計画が狂ってリズムが崩れたんだ。
「しゅーくんはやっぱりしゅーくんだね」
「は?」
「ん、いや、成長してないなって」
「なんでそんな上から目線なんだよ」
 思いっきりデジャヴなやりとりをしながら、凜は楽しそうに笑った。やっぱり凜にも親心みたいな気持ちがあるんだろうな。俺はなんとなく負けたような気持ちになって頭を掻きながら話を続けた。
「ま、そうは言っても否定は出来ないけどね……実際、まだ出来ないことの方が多いし」
「出会った時からずっとヘタレフニャチンだもんね」
「否定は出来ない……しかしお前それよく言うけど触ったこと無いだろ」
「さて、どうかな?……いったぃ!」
 俺の背筋が凍って鳥肌が立ったのと、俺が凜の脳天に拳骨を落としたのが同時だった。寝てる間とかに本当に触られてそうで笑えない。あ、こんな内容で薄い本とか描かないでね! まあ誰も描かないと思うけど!
「そんなに本気で殴らなくても……」
「無意識に防衛本能が発動してしまった」
「むー、そっちの性癖に目覚めたら責任取ってよね!」
 顔を膨らせて怒る凜を見て血の気がひくのを感じた。ポーズと声はかわいいのに会話内容がおぞましすぎる。凜はニヤニヤしながら暫く黙って頭頂部をさすっていたが、急に立ち止まった。
「しゅーくん」
「何?」
 俺が振り向いて2メートルほど後にいる凜を見ると、凜は真顔で真っ直ぐ俺を見つめていた。暫く訪れる静寂。聞き飽きたようなクリスマスソングが耳の奥で反響し、二人の間にはうっすらとした雪が薄い幕の様に降りていた。
「その……なんていうか……逃げちゃだめだよ!」
「へ?」
「いや、なんで私がこんなこと言ってるんだってか、自分が不利になるようなこと言ってるって言うか、なんていうか……えーい!」
「えっ……おっと、っと」
 凜は早口で話した後、突然突進してぶつかってきた。二人まとめて倒れそうになったので、抱き留めるようにして凜を支えた。凜と凜のギター分の衝撃が体にかかってくるので、俺は踵に力を入れてこらえた。凜は俯いたまま話し始めた。
「ちゃんと仲直りしてよ。……この前そう言ってから大分時間経ってるじゃん。私があのリブ・フォーエヴァー歌ったんだよ?」
「ごめん。悪かった」
「私は……私は柚木ちゃんのことなんて殆ど知らないけど、それでもしゅーくんが大事に思ってることは知ってるし、それに、しゅーくんは……大事だから」
「何を言って……」
「むー! とにかく!」
 凜は顔を赤らめながら俺を両手で突き放した。またよろけて倒れそうになったが、また踵に力を入れてこらえた。
「今日は帰ろうよ、ね?」
「……そうだな」
 凜は黙って駅の方へ早足で歩き出した。俺は混乱して熱くなった頭を冷やすのに精一杯でついて行く気にもならず、ものすごくゆっくりとしたスピードで凜の後を追った。
 俺は凜に励まされたのか? 凜は全部分かってるってことなのか? だとしたら、凜は……凜の気持ちは……。
「しゅーくん」
 ふと顔を上げると、凜がいつの間にか目の前に戻ってきているのに気がついた。俺がぼんやりと眺めていると、凜はおもむろに右手の小指を突き出した。
「その……約束、してほしい」
「何を?」
「これから、何があっても、バンド、続けたい」
「……なんでそんな片言なんだよ」
 そう言いながらも俺は凜の右小指に自分の右小指を絡めた。接触面積は少ししか無いのに思ったよりも暖かく感じた。小指に力を入れながら、俺は返事をした。
「当たり前だろ」
 そう呟くと、ほっと息を吐きながら、凜は満足そうな笑顔を浮かべた。
「えへへ」
「何だよその気持ち悪い笑い方は」
「いや、思ったより……いいクリスマスイブだったなと思って」
 いつの間にか、雪が止んでいた。



 それでもやっぱり家のドアを開ける瞬間は少し緊張した。
 引き戸を開けると、ツェッペリンの「レイン・ソング」が溢れて出てきた。居酒屋「どっこい」の中は常連の客が何人か来ていて、店内をまばらに埋めていた。クリスマスイブの夜にこんな所に来てるくらいだからよっぽど暇な人たちなんだろうなと要らないことを考えながら店の中に入ると、親父が声をかけてきた。
「おかえり、遅かったな」
「ああ、うん、ただいま」
 壁に楽器を開いていたカウンターの端っこの席に腰掛けた。柚木は来てないみたいだ。さて、どうやって呼び出したもんか。そうやって少し考えていると、親父はコップに入れた氷水を俺の前に出してくれた。
「晩飯は?」
「あー……食べてきたけど、なんかちょっとつまむものある?」
「はいはい了解……あいよ!」
 親父がカウンターの反対側から飛んできたオーダーに対応している間、俺は自分の左手をじっと見ていた。当たり前だけど、弦を押さえているから指の先が固くなっている。でも同じくらい右手の人差し指と中指も固くなってるんだよな。指弾きベーシスト万歳!
「……で、ライブはどうだったんだ? 上手くいったのか?」
「あ? ああ、まあまあかな」
「ほう、と言うことはかなり上手くいったんだな」
「なんで?」
 親父はおでんの大根と牛すじ肉と練り物が入った器を俺の前に置きながら、鼻から息を抜くような、非常に不快な笑い声を立てた。
「だってお前、上手くいっててもだいたい『ダメだった』っていうじゃん。そう言わないってことは相当満足いく感じだったんだな」
「まあ、自分的には割と満足してる。聞いてる人がどう思ったかは知らないけど」
「まあそんなもんだろミュージシャンって。他人の考えてることなんか滅多にわかんないから、自分に閉じこもって良し悪しを決めなきゃならんところがあるからな」
 そう言って、「どうだ、いいこと言っただろ」と言わんばかりの鬱陶しい顔をする親父を一瞥しながら、俺はおでんをつまんだ。親父の言うことも一理ある。他人の気持ちなんて本当は分からないから、想像することしかできない。
「なるほど。流石大学在学中ギターばっかりやってて結局居酒屋つぐことしかできなかった男だけあるな」
「やかましいわ」
 親父が拗ねるのを見ながら、俺は水を一口飲んだ。心地良い冷たさが舌の上を埋め尽くした。
「で、そういえば、なんの曲やったんだ?」
「ああ、ツェッペリン。イミグラント・ソングとカシミールとステアウェイ・トゥ・ヘブンだから……有名な奴ばっかだけどな。哲平……ドラムの奴がずっとやりたいって言ってたから」
「ああ、なるほど、それでか」
「は?」
 脈絡の無いセリフが飛んできたので牛すじ肉を食いちぎりながら俺が聞き返すと、親父はコンポの近くに飾ってあったツェッペリンの五枚目のアルバムのジャケットをひらひらと振りながら言った。
「いやー、さっき柚木ちゃんが久しぶりに来てさ、今日はツェッペリンかけてよっていうからさ」
「え?」
「俺もそう言えば最近聞いてなかったし久しぶりに聞いてももいいなぁと思って……どうかしたか?」
 俺は持っていた箸を叩きつけるように投げ出し席から立ち上がっていた。急に頭に血液上昇して少しふらふらしたが、何とか真っ直ぐ立って言葉を捻りだした。
「……いや、柚木、来てたの?」
「あー、うん。お前の部屋にいると思うよ」
「ちょっと……楽器片付けてくる」
「おい、おでんは? 冷めるぞ?」
「悪い。食べといて」
 コップに入っていた氷水を一気飲みする。舌の根に残ったおでんの出汁の味が溶けるように消え、固いもので殴られたように冷たい衝撃で目をさます。――よし、行くか。
 俺はベースと荷物を抱えて階段を登り切ると、部屋の向こうからギターの音が聞こえてきた。音だけで分かる。間違いなく柚木のギターだ。音で分かるってのも気持ち悪いけどずっと聞いてきたのでわかるものは分かってしまうのだ。そして、弾いている曲に気づいた俺は少し笑いそうになってしまった。
「鶫もちょっとくらいは賢くなったのかもしれないな……」
 曲はステアウェイ・トゥ・ヘブンだった。
 ドアをゆっくりと空けるとバルコニーに続く窓が開けっ放しになっていて、外の寒さが直に頬を打った。バルコニーの椅子にギターを持った柚木が腰掛けてギターを弾いていた。勝手に俺のダウンコートを持ち出して羽織っている。月明かりが白い頬とエピフォンカジノに冷たい光を落とし、流れるようなアルペジオが冷え切った空気を細かく揺らしている。
 流石にどっかの変態ツインテールのごとく歌いながらは弾けないみたいだったが、メロディを弾きながらコードをアルペジオで弾いている。それでも十分に凄いと思うが、いつ練習したんだろう。まあ有名な曲だから弾けても不自然ではないけど。
 ワンコーラスくらいやったところで俺の気配に気づいたのか、振り向いてうっすらと微笑んだ。
「久しぶり」



「元気だったか?」
「まあまあ。あれからは安定している」
「それ、俺のダウンなんだけど……」
「鷲のものは私のもの、私のものは私のものだよ」
「どこのガキ大将だよ」
 久しぶりの柚木との会話だ。緊張はしていたがそれでもすらすらと言葉が出てきた。だが、不自然なまでにすらすらしていた。乾燥した肌をこすり合わせるような、不自然な摩擦の無さを感じてしまった。でも、俺は流れるままに、一番気になっていたことを聞いた。
「なんで……なんで、来なかったんだ」
「……その、なんていうか」
 止まった。柚木は答えを用意していなかったのか、明らかに動揺していた。空白に緊張が埋まる。
「なんとなく」
「……そうか」
 くそっ。一番解釈に困る答えを返しやがった。俺が思わず溜息をつくと、口から白い気体がどばどばと漏れ出した。柚木は俺の落胆に気づかないフリをしながら話を続けた。
「まあそもそも他人の家にあがりこんでること自体おかしいと思うけどね」
「他人て……何を今更」
 確かに幼馴染みとは言え、男友達の家に上がり込んで飯まで食ってるのは変な話だが、人生の半分以上をこの家で過ごしてきた奴が言うセリフじゃない。まあ多分本心から言ったセリフじゃない。こいつは何かを誤魔化そうとしている。
「鷲こそ。そんなこと聞いて、寂しかったの?」
「そうだな。寂しかった」
 俺は真っ直ぐ柚木を見つめながら言った。今日はもう逃げないと凜に宣言したんだ。柚木は、俺を動揺させて自分のペースに持ち込む作戦が失敗し、少したじろいだように見えた。
「……はっきり言うね」
「まあね。それより、今日、来てたんだろ」
「鶫ちゃんが教えてくれたの」
「それで、どうだった?」
 柚木は少し考えるように俯き、ギターを握りしめた。この時になって俺はやっと寒さを感じて身震いした。この寒い中、制服とセーターだけで突っ立ってるんだから寒くて当たり前だ……でも顔だけは熱かった。
「良かった……すごく、良かった」
「凜の歌だろ?」
「うん。鳥肌立った。まあ、ギターソロも凄かったし、ドラムのアドリブも凄かったし……ベースも、今までで、一番」
 それだけ言って柚木は黙り込んだ。俺は制服のポケットに突っ込んだ手を固く握りしめた。柚木が絶賛するのは珍しい。
 柚木はコンクリートの地面を凝視するように俯いていた。月明かりと駅前の飲み屋街の街頭の光を遮り、髪が顔にうっすらと影を落としていた。俺はポケットから右手の手のひらを出して見つめた。
 今、だよな。
 今、しかないよな。
「「あの」」
 俺が柚木を覗き込むようにして口を開いた瞬間と、柚木が顔を勢いよく挙げて口を開いた瞬間が同じだった。しまった。被った。俺は恥ずかしさを誤魔化すために俯いて髪の毛をかきむしった。
「あ、柚木から、言って良いよ」
「いや……私の話、長そうだから……鷲からで、いいよ」
「じゃあ」
 お言葉に甘えて続けさせてもらうことにした。
「あのさ、夏祭りのこと、覚えてる?」
「夏祭りって……あ、あの、今年の?」
「いや、違う。今年の夏祭りで話してた、小学生の時二人でいった方な」
「あ……なんだ、そっちか」
 あからさまにガッカリした声を出す柚木を見て、俺は笑いそうになった。ここまで感情むき出しな話し方をする柚木はあんまり見たことが無かったので、ギャップが面白かったのだ。
「いや、ちょっと前にその祭りの時のことを夢で見てさ、全部思い出したんだよ」
「ふうん、で?」
「あの時から、なんか分けわかんないけど互いに気まずくなって、ちょっと喋りにくくなってたじゃん」
「うん」
「あの時から」
 息を吸った。
 音が止まった。
 映像が止まった。
 そして、声が出た。
「あの時からさ……・俺、お前が好きだった」
 柚木は目を見開いたまま固まっていた。自分の心臓の音だけが死ぬほど大きく聞こえていて、顔が膨張するほど血液が送られているのを感じた。それ以外は何も感じなかった。
「……はっず」
 恥ずかしさを紛らわすためにぼそりと呟いてみたが、現状は何も変わらなかった。俺の頭部は空気の冷たさを打ち消すかのように発熱していた。
「おい」
「……」
「なんか言ってよ」
「……」
「俺、好きとか言ったの初めてだか……うわっ、ちょっ、危な……いってぇ!」
 突然柚木に突き飛ばされのしかかられた。さっき凜に突進された時は踵で耐えきったが、今回は油断していて逃げられず、俺の体は宙を舞った。
 中途半端な受け身の取り方をしたせいで、固くて冷たいコンクリの地面に背中が叩きつけられる。上にのしかかってくる柚木の体重と、全身を襲う痛みの塊に苦しみながら、俺は恥も外聞もなくうめき声を上げた。どうしてこうなった。
「っつぅ……なにしやが……」
「……ずるい」
「え?」
「私が……私も、言おうとしたのに!」
「柚木……」
 柚木は俺の胸に顔を押しつけたまま、泣いていた。
「私は! もっと、もっと、もーっと前から、鷲が好きだった!」
「っ……」
「ずっと、ずっと一緒だったし、ずっと、ずっと大好きだった! なのに……鷲のばかぁ!」
 柚木はしゃくり上げながら顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだった。こぼれ落ちた涙が俺の顔に落ちてくるのが分かった。
「置いて行かないで……お願いだから、先に、行かないでよぉ……」
「……」
「ずっと、ベッドで寝てるしかできなくって……ずっと一人で……独りぼっちで。」
 何が強い奴だ。俺はとんだ勘違いをしていた。勝手な自分のイメージに捕らわれて、柚木を正面から見ていなかった。俺は悲痛な声で叫ぶ柚木の声を、黙って聞いていることしか出来なかった。そうすることでしか、彼女が感じた苦しみに触れることができなかった。
「ほんとは、ずっと、一緒にいたかった! 凜ちゃんたちが羨ましかった! 」
「……」
「お願い……お願いだから、もう遠くに、行かないで……」
 柚木が叫び終え、嗚咽を漏らしながらまた胸に顔を埋めた。俺は柚木の背中に手を回し、強く抱き寄せた。二人の体温が溶けて混ざり合った。
「ゆき……」
「え?」
「あ、雪降ってきたなって」
 また雪が降ってきて、「雪」とも「柚木」とも聞き取れる微妙なトーンで思わず口に出してしまった。さっきよりもずっと大きな粒の雪が、どんどんと地上に舞い降りてきていた。
 今ので意表を突かれたのか柚木は泣き止んだみたいだった。俺は肺に溜まった澱みを空気中に吐き出してから、話し始めた。
「……あのさ、リブ・フォーエヴァー聞いて、やっぱり突き放されたなって思った?」
 柚木が頷いて頭が動いたのを感じ取る。
「ごめんな。あれはさ、ほんとはさ、俺はなんにも変わってないから安心しろよー死ぬなよーって言いたかったんだ」
「……わかるわけないじゃん」
「だよなぁ。アハハ」
 アハハじゃねえよ。何笑ってるんだ俺。
「でもな、あれ録った後、凜に言われたんだよ。『しゅーくんは、私じゃないギターと声を想定して弾いてるように聞こえる』って」
「……」
「あいつ、すごいだろ? そんなことまでわかるんだぜ?」
 一度言葉を切ると、鼻を啜りながら柚木が顔を上げた。真っ赤で、目頭には涙がたくさん溜まっていた。俺は頬についた涙の跡を軽く触れるようにしてなぞってから話を続けた。
「俺はさ、ベースも中学の時よりは上手くなったし、柚木無しでも友達ができたし、バンドメンバーも集まった。でもな、それもさ、柚木がいないとダメなんだよ」
「……」
「家に帰ったらお前が俺の部屋でマリカしてるのがさ、嬉しくってさ。なんか変だけど」
「……偶にはスーパーマ○オしてるよ?」
 柚木がくすっと笑いながら呟いた。ちょっと(というか大分)古いゲームしかないのが我が家なのである。俺は少し緊張を解きながら、柚木を抱きかかえたまま上体を起こした。地面に打ち付けた背骨がまだ痛かったが全力で我慢した。
「お前が家に来なかったから、改めてそれがはっきりわかってさ。そう思うと、やっぱ好きなんだなって。恋愛とはちょっと違うのかもしれないけど、やっぱり、一番特別なのかなって」
「ほんとに?」
「うん……・なんでまた泣いてるんだよ……」
「いや、嬉しくって」
 そう言って微笑む柚木は、今まで見た柚木の中で一番綺麗に見えた。嬉しくて流す涙ってのは綺麗だと思った。どんどんと雪が強くなっていくが、寒さは全く感じなかった。そろそろ家の中に入った方が良いような気がする。でもなぁ……。
 俺は柚木に顔を近づけて小さな声で言った。
「あのさ」
「何?」
「頼むから目は開けるな」
「へ? なんで……んっ」
 開けるなと言ったのに。



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