Episode11:俺にだって、わからないことぐらい




 九月一日。
 夏休みが終わると、ああ、夏が終わったんだなぁ、って気持ちになってすこしセンチメンタルな気分に浸っているのだが、学校の用意をして外に出てみると普通に暑いし、蝉もまだしぶとく鳴いているので、まだ夏は終わってないんだなぁ、と思う。この思考が毎年のことなので、夏休みが終わって最初の登校日になると毎年強烈なデジャブを感じるのだ。まさにエンドレスエイト。
 ああ、どうも、学校に行く途中の桂木鷲です。夏休みの宿題が若干残ってるので少し焦ってます。因みに、ある人は某終わらない夏休みの時に無口のメガネ宇宙人の水着が毎回替わるのを楽しみに結局八回リアルタイムで見てしまったらしいです。誰の話だよ。
 よく考えてみれば家から学校へ行く道を徒歩で行くのも久しぶりで、少し傾斜のかかった道を歩く時に肩に食い込むベースケースの重さがそれを丁寧にも俺に教えてくれる。夏祭りライブが終わった後は一週間ほど母方の実家に帰っていたので、バンド練もなし崩し的に自主練習、ということになっていたし、凜や哲平とも連絡を取っていなかったので、今日は久しぶりに練習、ということになる。ってか、そろそろ十月初めの文化祭に向けて、曲を決めないと……レパートリーが増えてきたから使い回ししても良いのだが、今は出来るだけ色んな種類の曲をやって、色んな曲調の曲に対応できるキャパを広げておきたい。……いずれオリジナルを作ることを見越しての判断だ。流石リーダー、しっかり考えてらぁ、とか言って欲しい。うん。多分俺には他人の優しさが欠乏していると思うんだ。柚木も凜も哲平も俺の精神に優しくないからなぁ。地球と桂木鷲に優しく!
 因みに、あの日、えー、つまり、桂木鷲告白未遂事件の日から柚木とは全く進展していない。いや、進展もなにも、この十六年の間ずっと一緒にいて恋愛関係に一歩も進展してないんだから、今更じりじりとした気持ちになっても仕方ないんだけどね。アレのせいで、また小学校から中学にかけての時みたいに気まずい空気になるかもしれないと思っていたが、全く心配なかった。夏祭りの次の日に俺の部屋で勝手にマリカやってた。いや、そこまで気にされてないってのもどうかと思うからもう少し遠慮とか気兼ねとかしてほしいんだけど。
 授業開始十五分前に教室に着くと、いつもこの時間帯なら半分は来ているはずなのに、四、五人くらいしか埋まってなかった。みんな夏休みボケという奴だろうか。いや、俺も絶賛夏休みボケ中なのだが、家が近いもんだから時間にはぴったり間に合う訳なのです。俺が教室に入り荷物を置いていると、後ろのドアから大嶋さんが入ってきて、俺のところへやってきた。
「おはよう、桂木君。」
「ああ、お久しぶりです。」
 ライブの時の本番前に出会ってからずっと直接会ってないのでホントに久しぶりだ。ああ、メールは偶に来てたから、大嶋さんが無事に生きていることは知っていた。よく見ると、少し焼けている。
「焼けたねぇ。どこか行ってたの?」
「家族で旅行にね。うちの両親、もうだいぶ年なのにアウトドア好きだから。ゥフフフ。」
 ゥフフも久しぶりなのでなんだか懐かしく感じて、なんでかわからんがホッとした。この笑い方は無常なこの現世の中で唯一不変なものとして安堵を感じさせてくれるからか……いや、大げさか。いや、何だこの仏教思想っぽい発想。
「教室に来てる人、少ないね。夏休み明けだからかな。」
「多分そうじゃないかな。私も今日朝起きた時、夏休みが終わったと言う現実に愕然としてたもん。ゥフフフフ。」
「つっても、まだクソ暑いし、蝉はうるさいし、夏が絶賛ナウオンセールな訳だけど。」
「うん。暫く続きそうだね。」
 蝉の声がふと止んだ。どうやら、近くの方にいる蝉の声が止まったらしい。でも遠くの方で鳴いてる声が聞こえる。俺が窓から外の方を見ると、思い出したみたいにまた鳴き出した。
「……どうしたの?」
 振り向くと、大嶋さんがこちらを見ていた。
「……いや、何でもないよ。」
 なんだか悪い予感がした気がしたんだけど。虫の知らせって奴かな。蝉だけに。……くだらねぇ。



 放課後、といっても、短縮授業だったので昼飯を食ってすぐだったのだが、例の練習室(違法)に行くと、哲平だけ先に来ていた。退屈そうな顔(だとおもう。どう見ても怪しい企みをしている感じ。)で手持ちぶさたにスティックを回していた。俺が部屋に入ると、のそのそと手を挙げて声をかけてきた。
「よう。元気か。」
「ああ。ぼちぼちだな。」
 俺は埃をかぶったソファの上に荷物を下ろし、ベースを取りだした。G&Lの細身のネックがソフトケースから突き出た。
「哲平は夏休みの残り、何してたんだ?」
「あぁん? ああ、ずっと家にいたな。親戚が家に来て、五歳の従兄弟の相手したりてた。」
「お前、怖がられたりしないのか? 従兄弟に。」
「ああ、従兄弟だけが俺の味方だ。」
 肝っ玉の据わった五歳児だ。将来有望だな。おい。
「鷲はアレだろ? あのかわいい幼馴染みとイチャイチャだろ?……イケメン死ねよ」
「あのな、お前らは俺と柚木の関係について勘違いしている。」
「勘違いもクソも現行犯だろ? あの夏祭りの時。」
「いや、あの時喋ってただけだろ!」
 夏祭りで柚木に遭遇した後が大変だった。俺が不当にリア充呼ばわりされた結果、ハイテンションの凜と音量三割り増しの哲平とおもしろがってニヤニヤしている柚木に囲まれて衆人環視で正座させられ、柚木との関係についてあーだこーだと言われ、俺が必至に弁明したのだ。いや、そんなやましい関係はない。ほんとに。ってかあいつらがタイミング良く来なけりゃそうなれたかもしれないのに! いや、やましい関係になろうとしたわけじゃなくって、うーん。
「でも、さー。正直、好きなんだろ? あの子のこと」
「っ、す、きじゃあ、ねえ、よ。」
「ヤ○ザに急に核心をつかれてしまったせいで、自分でも嘘だとわかるような言い方で哲平に返してしまった。」
「……地の文風につなげるな。」
 ってかなんでこんな哲平ハイテンションなんだよ。夏休み終わった日なんだから、普通の人ならテンション下がってるとこだろ。あ、そうか、だから相対的にこいつのテンションが上がってるのか。そんな馬鹿な。
「でも、すっげえ、かわいいよな。あの子。相川さん、だっけ?」
「まぁね。かわいいとは思うが……お前が名前を覚えるほどかわいいと言うことか!」 「いや、なんだその驚き方。」
 あんまり意識はしてないが、客観的に見れば、柚木は、確かに見た目はかわいいだと思う。ただ、一緒に成長してきたということと、あのズボラな性格を知っているからかわいいと思わないだけだ。……だがそこが良い、とか思ってないんだからね!
「あの子、病気で入院してたっていっても、一応この学校に合格はしてるんだろ? これるなら来たらいいのに。」
「ああ、でも良くわからないんだけど、一年は様子見ないと危ないらしいし、出席足りなくなりそうだから、どうせダブることが決まってるなら来年からってことにしてあるんだよ。まぁ、来年には高校一年生だ。」
「ってことは、お前とお手々つないで登校と言うことか!リア充が!死に晒せ!」
「いや一緒に来るとは思うが手はつながねえよ! ってか『死に晒せ』て!」
 こいつの憎悪はどこから来るのか。まぁ、俺もリア充嫌いだから良くわかるが、俺は決してリア充ではない。間違うな。そこでふとドアの方を見ると、磨りガラスの向こうに影が見える。歩いていって空けてみると、ツインテールの変態女が無表情で突っ立っていた。
「なんだ、凜か。何でそんなとこにボーッと突っ立ってるんだ?」
「え? ああ、なんでもない。今来たとこ。ただボーッとしてた。」
「夏休みボケ?」
「……まぁ、うん。強ち間違いでもない。」
 驚いた。凜のテンションが目に見えて低い。凜までこの状態とは、夏休みボケ、恐るべし。ああ、でも夏休み前にもこんなことあったな。まぁ人間常時ハイテンションだと寿命が縮みそうだからな。偶にはこうやってテンションが低い日も必要なんだと思う。凜は部屋に足を踏み入れ、余ってる机に荷物を置いて違う机に腰掛けると、いつものようにギターを取りだしてチューニングしだした。まぁ、いくらテンション低いっていっても、凜の場合ギターを弾いてるうちは大丈夫だよな。
「鷲、今日は何やるんだ? 適当にセッション?」
「あー、先にさ、そろそろ文化祭だから、やる曲考えるか。」
「またカラオケ?」
「いや、それでもいいけど、とりあえず思いつく候補挙げとこうぜ。」
「俺さぁ。前から言ってたけどそろそろラッドやりたい。有心論とか、セツナレンサとか。」
 哲平はラッドウィンプスが好きらしい。まぁドラムかっこいいからねぇ。そういえば大嶋さんも好きだとか言ってたっけ。……しかし哲平には似合わんな。
「なんか哲平にラッドって似合わんよな。」
「じゃあ、何なら似合うんだよ。」
「あー……人間椅子とか?」
「アホか。」
 いや、ほんと個人の感想なんだけど、ラッドってメッセージ性が強くて繊細なイメージあるからな。あと、人間椅子のことを誰かが『和製ブラックサバス』って言っててちょっと笑った。
「俺はそろそろレッチリに手を出したいなぁ、と考えている。」
「おお、凜の土俵じゃあないか。なぁ、凜。」
 哲平が凜に話を振ったのに、凜は反応しない。ってかさっきから凜を眺めていると、ギターを出してチューニングしてたまではよかったんだが、そこから何を弾くわけでもなく、話に参加してくるわけでもなく、ただ焦点の合わない目で虚空をボーッと見つめているのみなのだ。これは輪をかけて変だな。いや、いつも変だから(略)……この話前もしたよな。
「凜?」
「ん? あ? え? 何?」
「いや、文化祭の曲、何がいいかって話。そろそろレッチリやらないかな、って?」
「あー、うん。いいねぇ……。」
 レッチリの名前出しても上の空とは……これは重症の夏休みボケだな。俺は哲平と顔を見合わせ二人で首をかしげた。とりあえず凜を無視することにした。
「鷲はレッチリの何やりたいんだ?」
「あー、そうだな……ネイキッドインザレインとか、ブラッドシュガーセックスマジックとか、ノックミーダウンとか。ああ、そうか、ダニーカリフォルニアは一回やっときたいな。」
「ああ、いいな。アレ。デスノの映画の主題歌だった奴だろ?」
 デスノの主題歌になったから、日本でのレッチリファンが増えた、と聞いたな。でも一部のファンからは「デスノでレッチリに入る奴ってどうよ?」と言われている。まぁ、どっちも大したロッキンポ野郎だな。
「凜、凜はレッチリなら何やりたい?」
「……え? 何て?」
 俺は哲平と顔を見合わせ二人で首をかしげた。ダメだ。無視しきれない。ってかなんか夏休みボケだけじゃない気がしてきた。
「凜、お前、どうしたんだよ。さっきからボーッとして。」
「……。」
「体の調子でも悪いのか?」
「……。」
「おい、お前、」
「……言ってもわかんないと思う。」
 凜が冷え切った声で返してくる。
「何をだよ。」
「……しゅーくんに、」
「は?」
「しゅーくんなんかに!私の気持ちがわかるわけない!」
 は?
 え?
 はい?
 みるみるうちに凜の目から涙が溢れ出してきたが、それでも、きっとした目で俺を睨み付けてこう言い放った。
「もうこんなバンドなんか知らない!」
 唖然として何も言えなかった。いや、だって、なんで怒ってるのか全くわかんないし言い返しようすらないし。激昂した凜はギターを乱暴にケースに入れ、自分のカバンをひっつかんで部屋から荒々しく出て行った。勢いよく閉まったドアの音が部屋中に響いた。
「え? 今の何? ドッキリ?」
「……そうか、聞こえたのか。」
「何が?」
 哲平は目をスッと細め、ドラムの椅子から立ち上がった。
「……追いかけてくるわ。ややこしいからお前は来るなよ。」
 そう言って哲平も荷物を掴んで部屋を出て行った。俺だけが一人部屋に残された。クーラーのないこの部屋では外気温がまともに俺を襲う。汗は出ないんだけど暑い。俺は冷たい床に座り込み、自分でも不自然だと思うくらい冷静になっている頭で考えてみた。
 まず、さっきから喋ってた内容を全部加味しても、凜が怒る文脈じゃあなかった。明らかに不自然に怒り出した。しかも、八つ当たりにしては少し激しすぎる。えーと、あいつは何て言ってたっけ? 『しゅーくんなんかに私の気持ちがわかるわけない』?……いや、そりゃわからんだろうけど、でもそれって、わかって欲しいってことの裏返しだよな?
 さて、あいつは何をわかって欲しいんだ?



 家に全力疾走して帰った後、死ぬほど後悔した。
 いや、まず、自分でも、あんな言い方しなくても良かったと思った。あれじゃあ嫌いになられて当然じゃない。でもしゅーくんがデレデレとしてるのがドア越しにもわかって、なぜだかわからなかったけど無性に腹が立った。私は、ただ、悔しかったんだと思う。だって、あれだけ無愛想野郎なんだから、いくらイケメンだって言ってもしゅーくんと仲良い女の子なんていないと思ってたもん。同じクラスの笑い方が気持ち悪いあの女の子だって、しゅーくんは仲良くはしてるけど、それ以上、って感じもなかったし。――そんな嫌な計算をしている自分にふと気がついて、呆然としてる。それが今の私の状況。
 それで、あの日からずっと、あの練習室に行ってない。しゅーくんに会うのが怖かった。廊下で見かけた時も避けた。あの目で見られるのが怖くて仕方なかった。でも、このままじゃまたバンドをつぶしてしまう。それが怖くて、何とかしなきゃって思ったんだけど何とも出来なかった。
「一ノ瀬さん。」
「ああ、はい。」
「今の話、聞いてた?」
「いえ、全然。」
「なんでそんなドヤ顔なのよ。」
 私が胸を張って先生に答えるとクラスから失笑が漏れた。ああ、そうそう。六月の定期ライブ以降は、みんな私のことをクラスメイトとして扱ってくれるようになった。まだ冷たい人もいるし、他の人もおそるおそるって感じだけどみんな私に話しかけてくれるようになったし、私も癖になっちゃってる下ネタを極力言わないようにしている。しゅーくんの狙った通りにことが運んで私もビックリしてた。……でも、今はそのしゅーくんと喋ってない。
「一ノ瀬さん、このプリントは今週末までに提出。覚えといてね。」
「わかりました。忘れずに忘れます!」
「そんな無意味な宣言されても!」
 いつの間にか手元にあったプリントを見ると、体育祭希望種目一覧、と書いてある。ああ、そんなイベントもあったんだっけか、と私は人事のように思っていると、放課後と掃除開始を告げる先生の声が響いた。九月だというのに全く涼しくなる気配のない空が窓から見えた。
 教室を出て、旧館の方へ足をむけかけて、ビクッとなって昇降口へ向かった。いつの間にかあっちへ行くのが癖になってて、意識してないとあちらへ行ってしまう。……はぁ。ダメだな。私。
「おい。」
 後ろからドス声がドスっと背中に刺さった。どすこい!
「……てっちゃん。」
「昼休み、どこいってたんだ。探したぞ。」
「え? ああ、保健室で寝てた。体調崩しちゃって。」
 もちろんウソだけど。なんかてっちゃんが来そうな予感がして適当な場所へ逃げてた。このごろはてっちゃんと話すのも怖い。いや、顔とか声とかじゃなくって。
「鷲から伝言だ。」
「……。」
「文化祭、一曲は、ダニーカリフォルニアをやるんだと。」
「……。」
 レッチリのダニーカリフォルニア。私も好きな曲だけど、なんでこの曲? しかもなんで勝手に決めてるの? 私がレッチリ好きだから、それで戻ってくるとでも?
「あと、ボーカルは鷲がやるらしい。」
「……なんで? 私は御役御免ってこと?」
「違うと思うぞ。あー、……ちょっと長い話になりそうだからこっちこないか?」
「むー……今帰るとこなんだけど。」
「いいからこい。」
 ドス声で脅された。でも、こういう時に脅し声を聞いても怯まないのはいつも聞いてるからだよね。人間、なれれば何も怖くないよね。ウチのお父さんなんか全く怯まないもん。……てっちゃんに背中を押されて無理矢理連れて行かれたのは、初めてしゅーくんに出会った時に話したベンチだった。なんか皮肉だなと思った。てっちゃんに半ば突き飛ばされるようにしてベンチに座らされた。てっちゃんは溜息をつくようにして話し出した。
「あのな、鷲はお前が怒り出した原因が、お前にプレッシャーをかけすぎたことだと思ってるんだ。」
「……え?」
「いや、レフトオーバーズの実力の8割がお前の実力でまかなわれてて、それがお前にとって重圧だったんじゃ無いか、だから『こんなバンドもう知らない』ってなったんだろう、って鷲は考えてるんだ。」
「そんなこと、ない! 私一人じゃ、何も出来ないのに……。」
 実際しゅーくんとてっちゃんがいなかったら曲にならないのに。なんで……なんであの人は的外れなことばっか……。
「そんなこと鷲だってわかってる。でも、お前が唐突に怒ってそれから何も話さないせいで、考える材料が少なすぎるからそう判断したんだろ。」
「まぁ……そうなんだけど。」
 二人して沈黙した。運動系の部活がグラウンドで練習を始めたのが見える。一人一人がどんな人なのかは知らないけど、運動している人みんなが活動的で健康的に見えた。 「……あんまり言いたくなかったけど、もう一つ伝言がある。」
 てっちゃんが言い辛そうに口を開けた。体に力を入れて覚悟する。
「何?」
「バンドをやめるなら文化祭の後にしろ。俺らのライブを待ってくれてる人がいる、だそうだ。」
「……ははっ。」
 思わず笑った。しゅーくんらしいや。この期に及んでも、まだ他人のことばっかりかんがえてる。今のはこういう意味だろう。「やめたければ文句は言わない、でも、お客さんだけに迷惑はかけちゃだめだ。」……自分のことは、ずっと後回しなんだ。自分の身しか気遣わない私とは全然違うんだ。私は泣きそうになったけど、必至でこらえて、立ち上がっててっちゃんに背を向けた。
「……わかった。ダニー以外の曲が決まったら伝えてくれる?」
「おい、凜。……お前、本気でやめる気か?」
「……。」
 答えなかった。ホントはやめたくないよ。三人の音が重なる感触。ライブの高揚感。生まれて初めて手にしたこの感覚を、ずっと、感じていたい。でも、永遠なんてものは存在しない。私は気持ちを断ち切るようにして歩き去った。
 さて、夏が終わってから急速に落ちるのが早くなった太陽がいつもの道をオレンジ色に染めてあげている。私はバス停までの道を、人目を憚らずに泣きながら歩いた。でも、すれ違う人は私を変な目では見るものの、誰も声をかけない。こういう時に現代人の冷たさを痛感するよね。でも、しゅーくんにも、いっそこれくらい冷たくしてくれた方があきらめがつくのに。あの人はどこまでも優しい。……うん、わかってるよ。ホントは。私が謝ればすぐに済む話なんだ。でも、そうしたら怒った理由を説明しなくちゃならない。そうすれば、優しいしゅーくんはどういう反応をするだろうか。もう私には関係ないふりをするのかもしれない。多分、それが一番怖かったんだ。
 バス停が見えてきたあたりで涙が止まった。絶対止まらないと思ったら止まるよね、涙って。顔をごしごしこすって、手鏡で自分の顔を見た。凄くひどい顔だったので一人で笑った。……なんで私こんなに悩んでるんだろう、こんなむしゃむしゃしたこと無かったのに。言い間違えた、むしゃくしゃしたこと無かったのに。ははは。心の中の言い間違いで一人で笑った。馬鹿みたい。
 その時に、橋の下からギターの音が聞こえてきた。曲は何かわからなかったけど、誰のギターかは音だけで一瞬でわかった。もう一度きちんと顔をこすってから、急いで土手についている階段を駆け下りてみると、やっぱりだ!
「ギターのおっさん!」
「ん、ああ? ああ! 凜じゃないか!」
 いつも公園にいた私の師匠。突如として消えた、ギターのおっさんがそこにいた。



 Tシャツに短パンという南国にでもいたのかというような雑な服装で、おっさんは、いつものモーリスのアコギを抱えて橋の下に座っていた。
「おっさん! 久しぶりだね! 二、三年ぶりくらい?」
「ああ、そうか、そうなるんだなぁ。早いなぁ。……お前、見ない間にずいぶんでかくなったなぁ」
「そうでしょ? 中一の時からだと、6センチ位は伸びたよ!」
「いや、胸だよ。」
「そっちかよ! ……そーだなー、まだCには届かない。」
「いや、そこまで聞いてねえよ……」
 おっさんはカラカラと乾いた声で笑いながらFコードを弾きならした。おっさんの人相風体は全く変わっていなかった。身長は高く、ぼさぼさの髪に、無精ヒゲ。少なくとも、ウチのお父さんの口ひげよりはかっこいい。
「おっさん、こんなに長い間、どこいってたの?」
「んー? ああ、海外。」
「海外?!どこへ?」
「えーと、最初はアメリカで、次はイギリスで、フランスで、その後ドイツに行って、あとオランダだろ……?」
「むー。もういい。世界中だってことはわかった。で、何してたの?」
「ん? あー、海外でちょっと名の知れたアーティストの世界ツアーのサポートギターに入ってた。別に行きたくもなかったけど昔世話になった人に頼まれちゃって。」
 絶句した。ちゃんと仕事してたんだ。この人。おっさんは唖然としてる私の顔を見て、また乾いた声で笑いながら、今度はGセブンスをかき鳴らした。
「……おっさんって、凄い人だったんだ。」
「いーや、たまたま運が良かっただけさ。ギターの上手い奴なんていくらでもいる。」
「それでも、おっさんのギター、世界で認められたんでしょ?」
「まぁ、大袈裟に言うとそういうことになるのかもな。日本じゃ名前も知られてないけどな。」
 おっさんは照れくさそうにあごひげをなでた。この癖も変わってないな。ああ、名前で思い出した。そうだ、アレ聞かなきゃ。
「おっさんってさ、本名なんていうの? 長いつきあいのにずっと聞くの忘れててさ。」
「ああ? 秘密だ。」
「なんでだよ! 私の名前知ってるでしょ?」
「ハハハ。」
 ハハハじゃねえよ……なんか口を割りそうにない雰囲気なのであきらめた。まぁ、名前なんて知らなくったってどうでもいいんだけどね。
「で、ツアー終わったの? だから帰ってきたの?」
「まぁ、そうなんだけど……」
 おっさんは言葉を濁した。おっさんらしくない言動だったので少し驚いた。
「何かあったの?」
「……別れた奥さんのとこに住んでる俺の娘が病気で入院した、とかいう話を知り合いに聞いてさ、急いでこの町に帰ってきたんだけど、その奥さんに門前払いくらって、会えなかった。」
 おっさんは今度は寂しそうに笑った。これは今まで見たことのないおっさんの姿だった。私は、そんな立場じゃないのに、なぜか同情してしまった。
「おっさんにも色々あるんだね……ずっとギターばっか弾いて下ネタばっか言って笑って暮らしてるんだと思ってたけど。」
「……八割はそうさ。後の二割は辛酸なめてるよ。お前こそ何かあったのか?」
「え?なんで?」
「泣いた跡あるぞ、顔。」
 カバンの前ポケットから手鏡をだして、もう一度自分の顔を見た。それを見ておっさんはからから笑った。手鏡に映った私の顔はさっき見た時と殆ど変わってなかった。こすったのに治ってなかった! 恥ずかしい! まぁいいかおっさんだし。
「なんだ? また昔みたいにいじめられたのか?」
「ううん。いじめられてはいない。友達も出来たし、バンドもやってる。」
「そうか! ……お前も成長したな。」
「えへへっへへへへ。」
 おっさんに頭をなでられて、思わず変な声が出た。その時、ふと思いついた。……ああ、そうだ、おっさんに相談してみよう。昔は困ったことがあったら他の誰でもなくて、必ずおっさんに相談してた。
 大人ってのはずるい。自分たちもわからないくせに子供に難しい問題を押しつけて、それを解決しようとさせることが「教育」だと思ってる。その点おっさんは偉い。何かを聞けば、デタラメでもいつでも答えをくれた。そういう生き方に憧れてたんだったっけ。おお、珍しく真面目に考えちゃった。さて、と。私は少し考えてから口を開いた。 
「あのさぁ、おっさん。私、好きな人が出来たんだ。」
「……マジで?」
「うん。マジ。」
 それから、私はおっさんの隣に腰掛けて、しゅーくんに出会ってから今までのことを、おっさんに洗いざらい打ち明けた。――出会ったこと。一緒に演奏したこと。定期ライブが大成功だったこと。二人で海辺に行ったこと。夏祭りライブに出たこと。無駄におっぱいでかい幼馴染みがいたこと。そして、私が突然一方的にキレてしまったこと。
 おっさんは真剣な顔で私の語を聞いてくれた。こうしていると、昔公園のベンチに座って長々と話し続けた時みたいだな、とぼんやり思ってた。最後まで話し終えて、疲れた私が深い溜息をつくと、おっさんはまたあの乾いた声で笑った。
「むー! 笑い事じゃないよ。私真剣なんだからね。」
「わーってるよ。いや、ただな、すっげえ青春してんな、と思ってさ。」
「青春? 青春かなぁ?」
「うん、青春だ。」
 おっさんは遠い目をして黙り込んだ。おっさんにも青春の記憶があるのかな。そういえば、別れた奥さんとは大学で出会った、みたいなことを聞いたことがあるけど、そのことを考えてるのかな。
「私、これからどうしたらいいと思う?」
「逆に聞くが、凜、お前はどうしたい?」
 おっさんは一呼吸置いてから続けた。
「その、しゅーくん、ってのと仲直りして、バンドを続けるのか? それともさっさとあきらめてまた独りでギターを弾くのか?」
「バンドは、やりたい。でも、仲直りしようとしたら私がなんで怒ったのか言わないといけないから……多分、嫌われちゃうと思う。」
「バンドを続けるだけなら他の奴とも出来るだろ? 傷つくのが嫌なら『しゅーくん』なんか切り捨てたらどうだ?」
「……うん。」
 そうか、そうだよね。どうしてしゅーくんと仲直りする必要があるんだろう。バンドがやりたいだけなら新しいバンドを組めばいい。また解散しちゃうかもだけど、何個も何個もバンドを渡り歩いているうちに落ち着ける場所があるかもしれない。そういう風にして上手く生きていけばいいんだ。私がしかめっ面をして考え込んでいると、退屈になったのか、おっさんはギターを爪弾き始めた。
「アンダーザブリッジ?」
「そうそう。」
「橋の下だから?」
「はは。まぁそうだな。」
 レッチリのアンダーザブリッジはこの時期の曲の中ではめずらしくしんみりした曲だ。ものすごくシンプルなメロディが反復し、モヤモヤした感じをストレートに伝えてくる。この曲がヤクのことを歌ったという風に言う人もいるけど、純粋にロサンゼルスのことを歌った歌だと考えても良いんじゃないかな、と思う。私はおっさんのざらついた声とギターの音の重なりに身をゆだねるように目を閉じた。

  もうこりごりなんだよ
  あの日みたいな気持ちになるのは
  俺が愛する場所に連れて行ってくれ
  はるか遠くのあの場所まで

 ちきしょー……何が『上手く生きていけばいい』だ。さっき自分で考えたことに腹が立った。なんで出来もしないことを突っ張ろうとしたんだろう。私は上手く生きていけない。だから「レフトオーバーズ」にいたんだ。それに、バンドとか音楽とか関係なく、しゅーくんが……しゅーくんがいないなんて耐えられない。
「私さ……。」
「うん?」
 おっさんが歌を止めた。今から良いとこだったけど、なぜかもう聞きたいとも思わなかった。
「しゅーくんじゃなきゃダメなんだよね。」
「へ?」
「私のギターについてきてこれる……いや、ついてきてくれるベースって、」
 頬に液体が滴る感触があった。雨かな。雨だよきっと。
「今のところ、しゅーくんしかいないんだよね。」
「……そうか。」
 ほんとはバンドだけじゃない。しゅーくんがいなかったら、てっちゃんとも会うこともなかった。クラスの人に話しかけてもらう瞬間もなかった。もしかすると学校に行くのも止めてたかもしれない。私の世界は、狭いままで終わった。
「しゅーくんがいないと、ダメなんだよね。」
「……そうか。」
 おっさんは黙って聞いてくれた。でも私を慰めたりはしなかった。でも、それでいい。私に自分で気づかせるきっかけをくれたんだ。やっぱりおっさんは偉い。



 しゅーくんと話したい。
 いや、話さなきゃ。



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